『ザ・ノンフィクション』「親に悪い」が浮かばない子ども「『おじさん、ありがとう』~ショウとタクマと熱血和尚が遺したもの~」
番組の最後のナレーションで、「この先、またつまずくことがあるかもしれないけれど、いつも心の中に笑顔のあの人(廣中さん)がいる」と語られていた。
「善悪を判断し、悪いことはしない」という、当たり前に思える倫理観は人にもともと備わっているものではなく、心の中に「(悪いことをすると)この人が悲しむ」という人物がいるからこそ善悪を判断できる、という話を聞いたことがある。その場合、浮かぶ顔の多くは親だろう。「親が悲しむ」「親に迷惑かけたくない」「親を心配させたくない」という思いが、人を踏みとどませる。
しかし、「こんなことをしたら親が悲しむ」という感覚が育たなかった子どもや、家庭や学校の環境が過酷なあまり、その感覚をなくしてしまった子どもが、思春期を迎えて大人並みの腕力や体になるというのは恐ろしい状況だ。ある人にとっては、当たり前のように心に存在している「悪いことをしてはいけない」が通じないのだ。
廣中さんは「こんなことをしたら親が悲しむ」の意識が希薄な子どもたちに対して、「廣中さんを悲しませてはいけない」という思いを植え付けたのだと思う。これは一朝一夕でできるようなものではなく、途方もない時間と献身が必要な行為だ。
また、この行為はネットなど「言葉」の分野の弱いところで、限界があるように思う。いくら気の利いた言葉を遠くから重ねたところで、届きにくいように思うのだ。廣中さんのように、目の前に存在する生身の人間が「ここまでしてくれる」という、体温や手触りといった「リアルなもの」が力を持つように思える。
不登校が増えている現在、廣中さんはどうしただろうか
令和2年版の法務省「犯罪白書」を見ると、少年による刑法犯・危険運転致死傷・過失運転致死傷等の検挙人員は近年減少を続けている。なお、これは「少年の人口比」を見ても減少傾向が続いており「単に子どもが減ったから」だけではなく、「罪を犯す」子どもの比率自体も減っていることがわかる。
一方で増えているのは不登校だ。令和元年度の文科省資料「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について」を見ると、子どもの数が減っているのにもかかわらず、不登校の子どもは「実数」として増えている。
学校に行けない事情は個々にあり、学校でなくても勉強を進めることはできるだろう。しかし、もし時間を持て余しているとしたら心配だ。今は、時間を潰すツールも充実しているが、ネットやSNS、動画やゲームができて楽しいという気持ちは、そう長くは続かないだろう。そして「暇」な時間は、考えがネガティブに陥りやすい。やることがあれば考えずに済むことも、思い煩いかねない。
また、「暇」という意識は「寂しさ」とくっつきやすいのも危険だ。座間9人殺害事件の白石隆浩被告は、毎日新聞の記事「SNSに助け求める人を救うには… 女性は座間事件の白石被告に質問を重ねた」において、記者の取材に対し「女の子はさみしいと思った瞬間に話をしたくなる。24時間の相談受け付け体制ができたら犯罪に巻き込まれないかも」と答えている。寂しさは、SNS上にいる危険な人物にすらすがってしまう危険性もはらんでいる。
罪は犯さないが、不登校の子どもが増加している現代。廣中さんだったら、子どもや親になんと言うのだろう。
・令和元年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果
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