皇族のプリンセスが「婚約破談」!? 結納したのに結婚式は延期続き……“ワケ有り”宮家のその後
堀江 医師の見立てによる死亡理由は「消化器不良」だったそうですが、あきらかに異常がありました。方子さまの自伝『歳月よ王朝よ 最後の朝鮮王妃自伝』によると「夜通し泣きつづけ、一夜あけても時々チョコレート色の固形物を吐き、容体は刻々と悪くなっていった」とのこと。亡くなられた後も、朝鮮王朝のルールで、母親なのに我が子の葬儀にすら参列できませんでした。そもそも朝鮮王朝では幼子の葬儀は禁止されていたとか。
――伊都子さまが警戒していた、他国の王室の生活の難しさを思い知りますね。
堀江 朝鮮王室が尊ぶ儒教の教えでは、親に先立つ子どもは親不孝ゆえに、そのペナルティとして葬儀はナシ、という理由だそうです。日本人には理解しにくいかも。江戸末期くらいまでは日本の皇室でも6~7歳以下のお子様が亡くなると、葬儀らしい葬儀はせず、こっそりと山や谷に埋葬する(ヘタすれば捨てる)などしたようですが(ドナルド・キーン『明治天皇』新潮社)、これは「7つまでは神のうち」、幼子は死んでも神の世界に戻るだけだから、人間として葬儀する必要もない……というような考え方だったからともいいますね。
――いずれにせよ、方子さまがおかわいそうで胸が痛みます。
堀江 そうですよね。伊都子さまも大ショックを受けました。大正年間~昭和初期にかけて、伊都子さまにとっては初孫がこのような形で亡くなり、さらには関東大震災や第一次世界大戦など、嫌なことばかりが起きたといえる年月でした。
なお、方子さんには妹君がおられて、それが規子(のりこ)さまです。ちょっとおてんばなところがおありで(笑)、大正時代の梨本宮家の重苦しい空気を、規子さまのそういうご気性が和らげていたのかもなぁというようなことを感じます。
1922年(大正11年)3月22日の伊都子さまの日記には「朝、食前、規子、父上様にしかられる。パンをストーブで焼(やい)てはならぬと申(もうし)てあるのに、バタのにほひした」ため、父の宮さまが「焼いただろう」と問い詰めると、規子さまは「私は焼いていない!」と強情を張って、最後には父の宮さまに言い負かされ、思わず泣いてしまったとありますね。しかし、その親子げんかを見た伊都子さまは「それでよし」とも日記に書いています。
結納したのに結婚式は延期され続け、最終的に婚約破棄
――宮家なのに、世間の親子ゲンカみたいなことをやっているのは微笑ましいですよね。
堀江 そうなんですよ。だからこそ、「それでよし」と伊都子さまも記されたのでしょう。子育ても、想像以上に熱心にこなしている伊都子さまではありました。しかし、規子さまは、ご結婚問題では方子さまとは別の方面で苦労なさいました。いつの時代も宮家の結婚事情は大変なようですね。
規子さまは山階宮武彦王という皇族の方から激しく求められ、結納を交わしたにもかかわらず、なぜか結婚式は延期されつづけ、最終的に「神経衰弱」、つまり宮さま側が「メンタルを病んで回復の見込みがない」という理由で一方的に婚約破棄されてしまったのです。当初は、お断りできない勢いで、熱心に言い寄って来られていたのに……。
――病気が原因とはいえ、ひどいお話ですよね。婚約破棄された場合、皇族のプリンセスには次のお相手がみつからないのですよね?
堀江 そうなんです。現在も秋篠宮家の眞子さまが小室圭さんとの結納をする、しないで混乱があるように見受けられますが、一度、宮家の女性が結納を交わすとなると、それは結婚したのも同義となるので、どんな理由にせよ解消されてしまうと、つぎのお相手を見つけることが困難になってしまうのですね。だから皇族方は結納にものすごく慎重になるのです。
結局、伊都子さまのご実家の親戚でもあった公家華族の広橋家なら、ワケ有りになってしまった我が子でも受け入れてくれるだろうということで、そこに持参金多めで嫁がせるということになってしまいました。李王家それから広橋家との縁談、どちらも名門との結婚ですが、伊都子さまにとってはどこか、両方とも不本意なものだったといわれます。
――しかし、こういう宮妃としての生活も第二次世界大戦の訪れ、そして敗戦と共に崩壊してしまうのですね。次回、ついに最終回です。