EXO・D.O.主演『スウィング・キッズ』、“タップダンス”で際立つ暗鬱な現実――「もしも」に込められたメッセージとは
冒頭、朝鮮戦争下の戦況をまとめたスピーディーなニュース映像から映画は幕を開ける。1950年6月25日、北朝鮮軍の奇襲攻撃に端を発する朝鮮戦争は、日本人にもなじみ深い、かのマッカーサー率いる米軍主体の国連軍による仁川(インチョン)上陸作戦や、中国軍の参戦で一進一退を繰り返したのち、38度線辺りで膠着状態に陥った。両陣営は51年7月には早くも休戦会談を始めたものの、合意に至る53年7月までの2年間戦闘は続けられ、死傷者はもちろんのこと、捕虜も大量に発生した。
増え続ける捕虜の収容問題を解決すべく50年11月、国連軍は巨済島に巨大な捕虜収容所を造った。釜山の南に位置する巨済島は、海に囲まれているため脱出の心配もなく、陸地から程よい距離にあったので捕虜の移送にも差し支えがなく、収容所建設には最適な立地だった。収容所の管理は米軍が行い、韓国軍が警備にあたった。
17万6,000人に上る捕虜の多さもさることながら、映画を見てまず戸惑ってしまうのは、構成の複雑さではないだろうか。国連軍の収容所にもかかわらず、そこでは北朝鮮軍や中国軍はもとより、北に協力した民兵から強制徴兵された民間人、アカにされてしまった南の避難民に至るまで、さまざまな立場の人間が一堂に会していたのである。映画の登場人物に照らし合わせてみると、ロ・ギスは北朝鮮軍、シャオパンは中国軍だが、カン・ビョンサムは避難民だ。混乱の中、少しでも怪しまれたらアカにされたこの時代、「乗る車を間違えた」だけのビョンサムがここにいることは、何ら不思議ではない。そして当時、米軍のあとを追って島に流れてきた「ヤンゴンジュ」と呼ばれる売春婦も大勢おり、ヤン・パンネもその一人であった。
カオスの様相を呈していた収容所で最も問題になったのが、捕虜たちの「イデオロギー」である。ここには根っからの共産主義者もいれば、報復を恐れて共産主義者のふりをしている捕虜も少なくなく、強制徴兵された民間人は反共主義者かどちらでもなかった。当初米軍は、反共主義者(反共捕虜)と共産主義者(親共捕虜)を分けて収容していたが、いちいち確認するのはほぼ不可能と判断したのか、そのうち区別をつけずに収容し始めた。これが後に、流血暴動や殺し合いをもたらすことになる。
映画にも描かれているように、各収容施設の支配勢力が「親共」か「反共」かによって、北朝鮮と韓国いずれかの国旗が掲げられ、施設同士で対峙する状況が生まれていく。同時に、施設内で「反動分子」や「アカ」を探し出してはリンチを加えるといった事件が後を絶たなかった。とりわけ休戦会談で捕虜の送還が問題となり、無条件に捕虜の全員送還を主張した北朝鮮側と、あくまで希望者のみの送還を求めた米軍側の対立が伝わると、捕虜間の分裂と殺し合いは凄惨さを極めた。なぜなら、反共捕虜や転向希望の親共捕虜にとっては、無条件の全員送還はすなわち死を意味するからだ。自分が反共主義者であることを米軍にアピールする者がいる一方で、親共捕虜たちは反共に寝返る裏切り者を出さないために、見せしめのリンチを繰り返したのである。