古株の女官、妃殿下を「絶対に許してはならない」と徹底マーク! ご成婚日に早くも“カウンターパンチ”が炸裂!?【日本のアウト皇室史】
皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!
――平民から妃殿下になられた秩父宮妃勢津子さま。足袋すら自分で履くことが禁止された宮中での生活に衝撃を受けたそうですね。ご成婚の儀式の途中には、女官によってあわや失明の危機に見舞われたとか……。
堀江宏樹(以下、堀江) そんな勢津子さまですが、奇跡的に視力、痛みともにその場で回復、ご成婚の儀式をすべて終え、御所から秩父宮邸に戻られました。しかし、そこでも古株の女官によるカウンターパンチが加えられるのです。
マント・ド・クールという重いドレスを脱ぎ、(日常着である)振り袖に着替え、足袋を自分で履こうとした瞬間、「侍女がいたします」と、「老女」(古株の女官)から「きっぱり言われ」てしまったそうです。
――足袋くらい自分で脱がせて! なんて言えませんよね。「きっぱり」言い切られてしまったなんて。
堀江 そうですねぇ。そもそも宮中文化という特殊なルールに慣れておられないわけですが、そんな方にも、なんの事情酌量もない感じが伝わりますよね。ちなみに「勢津子」妃のお名前は、結婚前は「松平節子」です。外交官令嬢として、比較的自由に暮らしてきた方です。
――改名なさったのですか?
堀江 大正天皇の皇后陛下のお名前も「節子(読み方は“さだこ”)」ですから、それに配慮する形で勢津子に改名したのでした。生活の中で、このように細かな変更点はいろいろありました。しかし「足袋さえ自力で履けなくなってしまった」というご自分の境遇には「暗澹たる思い」がしたというのです。無理もありませんね。
―――身分が高くなるということは、窮屈ですね。靴下を自由に履けるありがたさに初めて気づきました(笑)。
堀江 それ以上に心に堪えるようなルールもあったようです。成婚直前に教えられ、困惑が残った「しきたり」の一つに、宮妃という最高の身分の持ち主になった以上、実家の父も「松平」、母のことも「信子」と(少なくとも公式の場では)呼ばなくてはならないこと。そして、父親の上役として認識していた人物ですら、自分の使用人として接しなくてはならなくなったことがあったといいます。
―――両親が自分より低い身分になるんですね。頭では理解しても、言動に移すのはきつい。
堀江 女官のチェックは妃殿下の行動の逐一に及びます。
うっかり、自分の履物を自分で揃えようとしたら「あ、およしあそばして」と、「手をはらいのけんばかりの勢い」で女官から止められてしまうのです。行儀作法がなっていないダメな人という扱いなのですね。これは傷つきます。
女官は教育を目的としていたのは明らかだとは思うのです。皇族と結婚しただけでは、世間の誰からも認められる妃殿下の風格を身に備えることはできません。ですから、きつめに強く教育しすぎてしまうのでしょう。
――それにしても、それまで自分がいた社会では「行儀のよい振る舞い」だったのが否定されるのは……。
堀江 宮中には独特の衛生観念というか、しきたりが当時、あったのも事実なのです。
当時の宮中では、人間の体は腰より上が「上(かみ)」、下が「下(しも)」と厳別されていているのですね。例えば、お風呂。下半身が浸かっている以上、尊い上半身を同じお湯に入れることは言語道断。どんなに寒い季節で、冷えた浴室だったところで、半身浴オンリーです。肩までお湯に浸かれないのは不便ですよね。明治天皇がお風呂ぎらいだったのは、お風呂が窮屈な時間だったからでは、といわれています。ちなみに天皇のお身体の「上」は年若い女官、「下」は年老いた女官が洗います(『明治天皇の一日 皇室システムの伝統と現在』)。