女官が妃殿下に“激痛”の制裁!? スパルタすぎる“お妃教育”、知られざる実態【日本のアウト皇室史】
―――どんなスパルタ教育が書かれているのですか?
堀江 秩父宮雍仁親王と勢津子妃のご成婚当日、儀式途中から、女官による「最初が肝心」式の厳しい「お妃教育」が早くも施されていたことがわかります。
御成婚は明治35(1902)年6月のことで、大正天皇のときから皇室の新しい結婚式となった御所での「神前式」が踏襲されました。このとき、雍仁親王は26歳、勢津子さまは19歳になったばかりです。
勢津子さまは当時としては、かなりハイカラな上流家庭に育ちました。旧・会津藩主だった松平家のご令嬢です。しかし、家風が独特というか、お父上は爵位(子爵)を息子に譲り、自身は外交官として自活することをお選びになっていますね。勢津子さまも、このため旧大名家の姫としては異例なほど、自由に生きることができていたのです。
海外で外交官のお仕事をなさるお父上と共にアメリカ・ワシントンで思春期をすごし、当地の「フレンドスクール」を卒業してから帰国したばかり、という「帰国子女」でした。そして、お血筋は高貴ではあっても、ご身分自体は「平民」……。
―――いかにも宮中の古株女官から叩かれそうですね!
堀江 まさにそう。一般庶民でも、結婚式の衣装替えは大変ですけれど、当時の皇族妃ともなるとそれはもう……。
お二人のご成婚の日時は昭和3(1928)年9月28日でした。午前2時に起床、髪を「おすべらかし」に結い上げるところから、全てが始まります。深夜にいたるまでの怒涛のスケジュールの詳細は省きますが、印象的なのは勢津子妃がご自分を(ママゴトの)「人形のように扱われた」といっていることです。例えば、おすべらかしに通称「十二単」の姿で儀式に出て、写真を撮りおえたら、当時の宮中でもっとも公式なドレスとされた「マント・ド・クール」に着替えねばなりません。着替える際には、髪も油で固めたおすべらかしのままではダメですから、油分をなんとベンジン液で拭き取るのです。
油絵を描いたことがある方なら知っているでしょうが、絵の具の拭き取りにも使う、異臭のする液体です。しかも大量にベンジンを使ったため、目の上にかぶせてあった布に次第に染み、目に入り込んで激痛が……。
―――わわわ、それは大変です。妃殿下をそんな目に遭わせた担当女官には、どんな処分が……。
堀江 詳細はわかりません。しかしご成婚当日に妃殿下が失明の危機に見舞われるって、ひどいですよね。「一時は完全に目の前が真っ暗になって何も見えなくなりました。この大事なときに視力が戻らなかったら」……と焦る勢津子妃ですが、なんとか視力も痛みも回復し、大至急で次のドレスに着替えるのです。
それでも担当者を責めることは何も書いていないのが、さすが勢津子妃、器の大きな女性でいらっしゃると思うのです。けれど、着替えはおろか、靴を履く時さえ、すべてを女官におまかせするのが妃殿下の「日常」であると気づいたことには、非常に落胆したとはっきり書いておられますね。
―――ご成婚当日、早くも妃殿下としての生活に落胆した勢津子妃ですが、秩父宮邸に帰った後も続く、女官の「洗礼」とは!? 次回に続きます。