「ひょっとして……本物の天皇?」熊沢天皇、トークで世間をけむに巻く! 昭和天皇を“訴える”暴走へ【日本のアウト皇室史】
――揮毫というのは、文化人に好きな言葉を書いてもらうアレですか?
堀江 そう。すると熊沢天皇は調子にのってしまって、(熊沢の先祖にあたるということになっている)「後醍醐天皇遺詔」……つまり、後醍醐天皇ラストメッセージとして、次のようなポエムを書いたのでした。
『朕が六百年の後、世は火の海泥の海となりて、日本天皇危し 大延35年10月29日』
大延という年号は、熊沢天皇の正式名である大延天皇由来の偽元号で、かってに年号を作って、それを自分で使っちゃってるわけです(笑)。第二次世界大戦で日本が負けたのは、北朝の天皇家のせいともほのめかしていますね。たぶんブレーンの吉田長蔵に、揮毫を求められたら、こういうことを書け、といわれていたのでしょう。「遺詔」なんて専門的な言葉ですしね。
ところが、ここにも吉田以上のインテリである法学博士・瀧川からの「その御遺詔はどの書物にあるのですか?」といった鋭角のツッコミが入るのでした。これに対し、熊沢は「ある書物にあるということです。真偽は知りませんが」などと苦し紛れの回答をするしかできなかった。
さらに「後醍醐天皇が予言できるわけがない。現代文で書かれているわけもない」などと次々とツッコミ爆撃をくらうと、「文章は私が現代語にあらためました」とか(笑)。
――やめて! とっくに熊沢天皇のライフはゼロよ! というやつですね。
堀江 後醍醐天皇のラストメッセージなどとウソを言ってまわるのは、二度としてはいけないとか、「国法的にも道徳的にも許されざる罪悪である(「熊沢天皇吉野巡幸記」)」……とまで叱られてしまったのでした。
――うーん、正論ですけど、イジメられてるみたいで、聞いていてつらいですね。
堀江 あとね、周囲は熊沢天皇がらみで本や記事を書いて原稿料が出るかもしれませんが、熊沢天皇自身にギャラは大して入らなかったようです。だから困窮して金を親戚に借りにいって、さらにそこでも罵倒されるという。
例のインテリで「アンチ」の瀧川からは、吉野旅行最終日に「あなたは、今後どうするのか? このあたりでもう諦めたら」とアドバイスされています。そして、吉野にある北山宮という神主のいない神社で宮司として過ごす将来を勧められています。リングにタオルが投げ込まれた状態ですね(笑)。熊沢も目に涙しながら、その申し出を「吉田長蔵にも相談してみる」と言っていたのですが……。
しかし、熊沢天皇のブレーンの吉田長蔵は、その申し出を断りました。それどころか昭和26年(1951年)1月には、昭和天皇を天皇不適格者として訴えています! 具体的には昭和天皇が新憲法の定める「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」として不適格とする訴えを裁判所に提出しているのです。もちろん、却下されてしまいましたが。
吉田は熊沢でまだまだ稼げると思っていたのかもしれませんが、訴訟の失敗や、熊沢天皇という存在について世間が急速に関心を失っていることを察すると、いよいよ熊沢を見捨てることになりました。
次回、熊沢天皇シリーズ、驚愕の最終回です。