難解といわれる韓国映画『哭声/コクソン』、國村隼が背負った“韓国における日本”を軸に物語を読み解く
そんな中、ジョングの娘ヒョジン(キム・ファニ)の体に犯人たちと同じような湿疹が現れ、普段のヒョジンからは想像できないような粗暴な言動が見られるようになる。ジョングはよそ者を村から追い出そうとし、さらに、祈祷師のイルグァン(ファン・ジョンミン)を呼んで悪霊祓いの儀式も行うが、娘の容体は悪化するばかり。
怒り狂ったジョングは村人を集め、よそ者退治を試みるも失敗する。だが、その帰り道、ムミョンによって突き落とされたのか、よそ者は崖から落ちてジョングの運転するトラックにぶつかって死んだ。これで一件落着かと安心するジョングだが、ヒョジンは治らず、惨殺事件も終わらない。
絶望するジョングの前に忽然と現れたムミョンは、よそ者と祈祷師がグルだと断言。ヒョジンを守りたければ言う通りにしろと忠告するが、同時に祈祷師から電話で「女(ムミョン)こそが村を滅ぼそうとする悪魔だ」と言われたジョングは、ムミョンの忠告を守らず、その結果、ジョングの家族にも惨殺事件が起きてしまう。一方、よそ者はまだ生きていた。その正体を暴くべく、教会の助祭のイサム(キム・ドユン)がよそ者の元を訪れる。だが、そこで目にしたのは、「疑うな」という聖書の一節を口にしながら悪魔へと変貌するよそ者の姿だった。
ネット上で交わされた議論の多くは、宗教的な文脈のものだ。ムミョンと祈祷師、そしてよそ者の関係性と正体はなんなのか。例えばムミョンが守護神で、よそ者は祈祷師を支配する悪魔だという仮説を立て、それを元に物語の展開を読み解こうと試みても、必ずどこかで破綻を来してしまう。「実は村人を救うために何もしない(ように見える)ムミョンこそが悪魔なのでは?」「そもそも“悪魔”とは何か」といった本質論まで登場し、一部のクリスチャンからは「イエスを悪魔に例えるこの映画こそが悪魔だ」といった批判も飛び出した。
映画評論家たちの反応もさまざまだった。この映画にはいろいろな解釈を可能にする「餌」が多く潜んでいるため、多様なレベルで語ることができる素晴らしい作品だと評価する者もいれば、こうしてさまざまな解釈が乱立してしまうのは、監督自身が混乱し映画の矛盾を放置した結果だとバッサリ切り捨てる評論家もいた。解釈の多様性は映画の豊かさではなく映画が破綻している証拠である、と。いずれにしても評論家泣かせの映画であることは確かだ。
確かに、本作の謎の多さがリピーターを生み出し、解釈に夢中になるファン集団まで形成されたほど。一方で宗教的な文脈だけでなく、國村が演じるよそ者が日本人であること(監督は「日本人にした意味はない」と言っているが)からも、韓国と日本の歴史や文化的な関わりの文脈での解釈も可能ではないかと私は思う。やや飛躍しているかもしれないが、そういう意味で、ラストシーンでよそ者が手に持っているカメラが「サムスン・ミノルタ」のものであることは非常に象徴的ではないだろうか。
サムスンがカメラを売り出し始めたのは、1979年、ミノルタと提携してからだ。この提携によって生産されたカメラを、韓国に対する日本の技術的「支配」の結果として見るか、それとも日本による韓国への技術的「伝授」の産物として見るか――サムスンだけではなく、多くの韓国企業が日本企業との技術的提携を通して新しい事業に乗り出してきた。これを、日本による新たな経済的植民地化と批判する声も常に存在した。提携の裏に、経済的侵略を企む日本の「悪魔の顔」が隠れているというわけだ。まるで悪魔の顔に変貌していく、よそ者と同じように。だが、実際はどうか。サムスンはミノルタとの提携を機に、その後独自のカメラ開発に成功している。