天皇の落とし子とされる「一休さん」、50歳下美女と驚きのセックスライフ!?【日本のアウト皇室史】
皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!
セックス、肉食……宗教のタブーに切り込む「一休さん」の奔放さ
――前回に引き続き、室町時代の天皇・後小松天皇の御落胤(父親に認知されない庶子、私生児)かもしれない一休さんこと、臨済宗の僧侶・一休宗純(いっきゅうそうじゅん)(1394~1481)についてお話をうかがいます。一休さんが「天皇の子どもかもしれない」というウワサは朝廷も黙認し、現在でも、京都・酬恩庵一休寺にある一休さんの墓所は、宮内庁が管理しているんですよね。また、一休さんの母親は、天皇からの寵愛を受けるほど、恋愛能力が高く、そのDNAを受け継いだ一休さんも“エロい”大人になったのでは? というお話で終わっていました。
堀江宏樹(以下、堀江) そうですね。では早速、大人になった一休さんについてお話することからはじめましょうか。
5歳で京都・安国寺で出家、仏門に入った一休さんですが、数え年25歳で悟りを得るまでは迷走する日々が続きました。25歳のある夜、闇夜に響くカラスの鳴き声を聞いて、「姿は見えなくてもカラスはちゃんといるように、見えない仏様も実在している。私たちの心の中に……!」と悟ったわけです。「人は自分の心のままに」。それこそ「“ありのまま”に生きればよい」とね。しかし、悟りを開いたはずの一休さんですが、僧侶にはご法度とされていた“飲酒”や“肉”を口にしていたそうなんです。さらに、煩悩が宿るとされていた髪の毛も剃らずに伸ばし、女をバンバン抱くようになったとか……。当時でも臨済宗は、結婚・妻帯はおろか恋愛禁止ですし、女性とのセックスも絶対にダメ。
――「ありのままに」はいいですけど、ちょっと意味をはき違えているような……。
堀江 そのほかにも「女には飽きた。今度は男(=美少年)だ!」というようなことも言ってたみたい(笑)。いろんな意味で“肉食系”、“ヤバい”人物といったイメージが湧いてくると思いますが、実は当時の仏教界を皮肉るための“パフォーマンス”だったという説もあるんです。一休さんは寺の住職の座に収まろうとはせず、常に民衆と同じボロボロの衣を身にまとい、彼らと共に暮らしていたと伝えられます。その行動には、民衆に寄り添わず、心を救おうとしない仏教界の重鎮への「批判」が込められていたのでしょう。
――一休さんに“奇人”のイメージがついてしまいそうでしたが、民衆の心に寄り添う素晴らしい僧侶だったようで、ホッとしました。
堀江 “しかし”というか、“だからこそ”というべきなのか……。一休さんは詩集『狂雲集』の中で、70代後半を迎えた彼を慕う、20~30代の盲目の美女・森女(しんにょ)との性愛の日々を漢詩につづり、披露しています。50歳ほど歳の離れた森女とのセックスについて、『婬水(いんすい)』という漢詩で、セキララに表現したと言われていますが、よく引用される一節に「美人の陰、水仙花の香(かほり)有り」というがあるんです。現代訳すれば「君のアソコは水仙のかおり」。「陰」を「かげ」または「いん(つまりアソコの意味)」と読むかは、読者の品性に任せられるってことですが、“エロ”の中にも気品を感じませんか(笑)? また、別の箇所には「口に清き香、満(み)つる」といった表現があり、これは“ディープキス”とまでいかなくても、森女の息の香りがわかるほどに“密着”している様子であると読み解くことができます。ま、どう転んでも“エロス”に満ちた漢詩であることは間違いないですし、一休さんが“スケベ”だったのは明らかですけど。