『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』レビュー:差別の応酬を乗り越え、多様性を成熟させる「元・底辺中学校」生徒の奮闘記
――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。
■『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ、新潮社)
【概要】
アイルランドの父を持ち、日本人(著者)を母に持つ英国生まれの息子が、人種差別が根強く残る地域の中学校に通うことを決めた――。殺伐とした英国の縮図のような「元・底辺中学校」で、ぶつかり合いながらもたくましく過ごす息子や友人たちの日常を描くノンフィクション。著者は、保育士として見た英国社会を活写したルポタージュ『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』で、新潮ドキュメント賞を受賞したブレイディみかこ。英国で教育現場に携わったこともある著者ならではの視点で、今の英国が向き合う混乱と、それに立ち向かう人々が描かれる。
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7月24日、英国では、メイ前首相に代わり、ボリス・ジョンソン首相が就任した。新首相がEU強硬離脱を宣言したことで、英国は欧州のみならず、世界からその動向を注視されている――とはいっても、多くの日本人にとって英国の社会事情はかなり遠い話だ。しかし英国は、日本が近い将来確実に直面し、かつ悩み惑うであろう問題にすでにぶつかり、向き合いつつある“先輩”なのかもしれない。そう感じさせたのが、英国在住のブレイディみかこ氏によるノンフィクション『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)だ。
白人が圧倒的マジョリティーとして、1991年には人口の94%を占めていた英国。経済のグローバル化や人的移動、少子化が進んだ結果、2011年の調査では白人の割合は87%まで減少した。経済的に成功した移民は子どもを教育レベルの高い学校に入れるため、英国では学費も学力レベルも高いほど人種に多様性があり、一方で学力レベルが低い公立学校には白人労働者階級の子どもが集中するという、著者が“人種の多様性格差”と名付けてしまうような現象が起こっている。
それまで、比較的裕福(つまり人種も多様)なミドルクラスの子どもが通う地域一番の教育校とされる小学校で、「人種差別はあってはならないもの」と学んでいた著者の息子は、中学進学時に、白人労働者階級の子どもが多く通う「元・底辺中学校」を選んだ。音楽やダンスなど生徒が積極的に興味を持つ分野の教育に力を入れることで、生徒の意欲を育み、学力ランキングも上げることに成功したという、雑多だが活気のある学校だ。しかしそこで息子は、今まで関わりの少なかった層の人々と触れ合い、ミドルクラスに属していては見えない、英国のある種の「現実」とぶつかり、戸惑うことになる。
通学中に見知らぬ男性に「ファッキン・チンク」(※中国人、ひいては東洋系に向けた差別用語)とののしられたり、自身も移民なのにあからさまに人種差別をする同級生・ダニエルに怒りを覚えたり、衣食住が十分に整わない「アンダークラス(※日本でいう生活保護に近い福祉サービスを受ける層)」に属し、万引で苦しい生活を補おうとする同級生・ティムと出会ったり――。11歳の少年が引き受けるには複雑で重い日々のトラブルに、11歳だからこそ真っすぐ、正面から体当たりでぶつかっていく日常が、母である著者を通して描かれていく。
著者の息子が持ち帰ってくる日々の悩みは、英国をはじめとする社会がぶち当たっているひずみみそのものだ。「元・底辺中学校」は、人種や国籍の多様性に乏しい代わりに、貧富の差や家庭環境には大きなバラつきがあった。「多様性はいいこと」だと学校で学んでいた息子は、頻発するトラブルの厄介さに「どうして多様性があるとややこしくなるの?」と母に質問する。
「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃないほうが楽よ」
「楽じゃないものが、どうしていいの?」
「楽ばっかりしてると、無知になるから。(略)多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」
多様性は、差別意識も複雑なものにする。比較的裕福な家庭のダニエルは、金銭的事情で生活用品を十分にそろえられないティムをバカにし、対して英国人であるティムは東欧系であるダニエルの人種を差別することで巻き返そうとする。それは、社会のいたるところで起こっている、差別の応酬だ。対象は人種や国籍、性別に限らない。貧富、階級、出身、性的指向、高齢者と若者などさまざまなレイヤーの差別が複雑に絡み合い、単純に善悪をつけられるほうがまれだ。しかし、複雑な状況について知り、考えることをあきらめれば、それぞれの階層の分断が深まっていくばかりだ。
息子たちは、学校という場で、その分断と向き合わざるを得ない。いじめも暴力も差別もまん延する中で、息子とダニエルは好きな音楽や映画を通して友情を深め、取っ組み合いのケンカをしたダニエルとティムはサッカーを通して相手を少しずつ認め始める。分断された端と端から、少年たちが小さな手を取り合っていくさまは、大人にとってはまぶしく、学ばされることも多い光景だ。
年齢より大人びた息子の考え方は、自身がミックスとして生まれ、英国にも日本にもはっきりとした帰属意識を持てないことと無関係ではないだろう。英国では「チンク」とあおられるのに、日本に帰省すれば「ガイジン」と言われたり、知らない中年男性に「YOUは何しに日本へ?」と、しつこく絡まれたりする。ルーツとなるどちらの国からも「異邦人」として扱われる違和感が、彼に成熟を促し、人を区別することにまつわる感覚を繊細にしている。
日々分断と差別による対立に向き合うための一助として、息子は学校教育で学んだ「エンパシー(empathy)」という概念について両親に語る。エンパシーとは、息子にとっては「自分で誰かの靴を履いてみること」であり、著者は「自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだと思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のこと」だとつなげる。それは、英国のみならず、世界中のそこかしこで起きている混乱を乗り越えるために、これから身につけなければいけない能力なのかもしれない。
日本も、ここ5年で在留外国人が増加の一途をたどり、過去最高を更新し続けている。英国が移民の流入に混乱するさまを、遠い国のこととして見ていられる時間はもう少ないかもしれない。遠くない将来には、ルーツも信念も宗教観も多様な人々と、今よりさらに身近に関わり合って生きることになるだろう。それは、圧倒的なマジョリティとして“楽”に生きてきた人――つまり多くの日本人が、“うんざりするほど大変だし、めんどくさい”ことと向き合うことを意味する。それを受け入れようと受け入れまいと、多様性の広がりが逆行することはない。それならば、前を向いて進んでいくしかない。そう考える人々にとって本書は、肩肘張らない参考書になるはずだ。
(保田夏子)