「ジェンダー論の、少し先の話」――著者・はるな檸檬さんに聞く『ダルちゃん』執筆の背景
「ダルダル星人」が“擬態”した姿が、「ハケンOLマルヤマナルミ」として描かれる本作。メイクし、ストッキングをはき、通勤時にスマホで占いとニュースをチェックし、会社では社内ゴシップに参加するのが、“普通”だと、ダルちゃんは思っている。
――読者の反響の中には、「『ダルダル星人』は、発達障害のメタファーだ」といった声もありました。
はるな ダルちゃんの擬態前後の姿は、「自然」対「社会」とか、「感覚」対「概念」などのイメージを表現したものです。人には、動物として生きる本能と、人間として送る社会的生活の2本の柱があって、生まれたときはみんな「自然」だけど、社会に適応していく中で、人それぞれどちらかに強弱が寄っていくと思うんです。そうした感覚を記号化したのが、あの姿です。
人ははるか昔から、社会に適応する時点で無理をしているといいますか、ぬるぬるしたものを無理やり四角い型の中に入れる作業を、強引にやってきたと思うんですよね。その際に“普通”って概念はすごく便利で楽なんですよ。「これが“普通”らしいから、この型に入っておけば楽じゃん!」と。でもその“普通”って実は、幻想なんじゃないのか?と。「普通の人」っていないよね、ていう。
わたしが最初に“普通”という言葉を意識したのは、16歳くらいのときです。宇多田ヒカルさんがデビューして日本中が沸いていた頃、彼女と同じ年のわたしは、彼女のブログをよく読んでいました。そこにファンの女の子が残した、「ヒカルちゃんもそんなことを考えているんだ。ヒカルちゃんも普通の女の子なんだと思って、うれしかったです」というコメントに対して、宇多田さんが言及していたことがあったんです。「普通って、なに?」「普通ってそもそもなんなのか、考えたことある?」といったようなことを書いていて。
インターナショナルスクールで育った彼女からしたら、まっとうな意見だったのかもしれませんが、当時、宮崎の田舎の高校生のわたしからすると、「なぜこれにそんなに反応したんだろう」と思って、それが強烈な印象として残っていたんですよね。