池松壮亮の『宮本から君へ』が、屈指の青春ドラマとなり得たワケ
かつて、小栗旬は「クイック・ジャパン vol.115」(太田出版)に掲載された鈴木亮平との対談で、染谷将太と池松壮亮に関して「本当に死んだ目ができる」俳優だと絶賛し、(自分にはできない)熱のない芝居ができる彼らに憧れると語っていた。しかし、『銀と金』ではその死んだ目がもたらす狂気がマイナスに働き、平凡な青年役はあまり向いていないのだろう、と思ったのだ。
そのため、『宮本から君へ』の宮本のような平凡な人間が一生懸命、足掻いている時の暑苦しさを演じることができるのか懸念したが、池松自身も不安があったようだ。
同誌vol.137のインタビューで、池松は『宮本から君へ』の大ファンで、初めて読んだ22歳の時は宮本を演じたいと思ったが、宮本は「手放しの前向きさ」を持ったヒーローであり、自分はそのようにはなれなかった人間なのだ、と語っている。そのうえで、今の時代に自分が演じるのであれば、漫画版とは違う「人間としての宮本」を演じるしかないという。
ドラマを見ていると納得できる発言だ。ドラマの宮本は、行動こそ原作と同じで、自分の中にある信念を貫こうとするあまりに、恋愛でも仕事でも周囲を傷つけ、上司からは自分のことしか愛せない「究極のエゴイスト」だと言われる。だが、宮本はそのことに自覚的で、自分の行動が身勝手な自己満足でしかないことをわかっている。この自覚的な部分が強調されているのがドラマ版といえる。
ライバル会社の社員と喧嘩したり、見積書をもらうために横断歩道で土下座したりといった荒々しい場面に目が行きがちだが、ドラマで一番印象に残るのはナレーションだ。つぶやくように語られる心の声は内省的なもので、宮本が自身を醒めた目で見ているように感じさせる。そして、これは池松が本来得意とする熱のない演技だ。このナレーションが随所に挟まれることで、ドラマ版の宮本は、自分の信念を貫くために、あえて熱い人間として振る舞っていると思えてくる。
上記のインタビューで、池松は「嫌でも、前を向かなきゃいけないんじゃないか。強引にでも笑わなきゃいけないんじゃないか、という気分はおそらく入るだろう」と語っていたが、この、嫌でも前向きであろうとする宮本のあり方と、宮本を演じようとする池松の気持ちがリンクしたからこそ、ドラマの宮本にリアリティが生まれ、現代にも通用する屈指の青春ドラマとなり得たのだ。
(成馬零一)