松本人志との“確執”を突然暴露――角田信朗に見る、「ネット社会における自意識過剰」の恐怖
その後、同局の『ダウンタウンDX』が、何かの手違いで角田にオファーを出したものの、角田をテレビに出演させることは、先だってのドタキャンを容認することにつながると判断し、当日に出演をキャンセルしたという。つまり、全ては角田のドタキャンに端を発したことであり、松本は「番組、吉本興業、日本テレビとの問題」とビジネス上の判断であると説明した。
「8年たって、名指しで、ブログでってルール違反じゃない?」と松本は呆れ顔だった。芸能人相手にイメージダウンを伴った暴露話をすると“売名”と言われるのが常で、角田にも容疑がかけられている。本当のことは当人にしかわからないが、ブログを読んでいて私が感じるのは、角田が「自分は何も悪いことをしていない」「松本は自分を好きだったはずだ」という自分側のストーリーを強く信じていることである。
榎本博明の『記憶はウソをつく』(祥伝社)には、記憶は後からの刷り込みや現在の心理状態で変化することがあると書かれている。人間関係の行き違いは、双方の改ざんされた記憶のすれ違いと言える可能性もあるわけだが、たいていの場合、二度と会わなくなるので、全てがうやむやとなる。が、現代はネット社会。SNSを使えば、もう会えなくなった人を探して連絡を取ったり、ブログに自分の信じる暴露話的な昔話を書くことが可能なのだ。
例えば、妻子ある知人から、若い時に付き合いのあった女性を突然思い出したという話を聞いたことがある。私から見ると、2人はカラダの付き合いだったが、なぜか彼の中では「彼女と結婚したかった」に変換され、彼女を探しだし、20年ぶりにメッセージを送ってしまう。知人は、女性側から返事が来ないことで目が覚めたようだが、今まで一度も思い出すこともなかったような人から、いきなり意味不明な連絡が来たという経験をしている人は、実は多いのではないだろうか。
角田も知人も、自分が相手にした非礼はきれいさっぱり忘れるかわりに、「相手は自分のことを覚えているはず」という自意識過剰さを発揮している。人の自意識過剰さが一線を越すのは、記憶を美化するに十分な歳月の経過と、ヒマな時間がありすぎる時ではないだろうか。ネット社会の現在、我々は誰でも角田的な自意識過剰を起こして、他人に“記憶テロ”をしかける可能性がある。
「会えなくなった人は、もう会わないでいい人、もしくは思い出す必要のない人」――もう会っていない誰かを妙に思い出したら、自分の中の角田に、こんな呼びかけをしてみたらどうだろうか。
仁科友里(にしな・ゆり)
1974年生まれ、フリーライター。2006年、自身のOL体験を元にしたエッセイ『もさ子の女たるもの』(宙出版)でデビュー。現在は、芸能人にまつわるコラムを週刊誌などで執筆中。気になるタレントは小島慶子。著書に『間違いだらけの婚活にサヨナラ!』(主婦と生活社)、最新刊は『確実にモテる 世界一シンプルなホメる技術』(アスペクト)。
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