「仕事と引き換えに性的関係を」セクハラに悩んだ末、たどり着いたアンサー
私は単純な性格でよくも悪くも短気なので、怒りや悩みといった負の感情が持続しません。寝て起きると、わりと忘れるタイプ。それなのに、数年来ずっとモヤモヤを抱えたままでの事案があります。
最近までうじうじしていた状態から脱せたのは、『部長、その恋愛はセクハラです!』(牟田和恵著書、集英社)を読了したから。そうなんです、私が悩んでいたのは、セクハラ案件。「仕事上の有利な条件と引き換えに性的関係を求める男」の存在でした。
もう何年も前のことにしても詳細を書くのはむずかしいのですが、立場も年齢も圧倒的に相手のほうが優位な状況です。そもそもセクハラは、対等ではない関係のなかで起きるもの。私にとってはあくまで「仕事関係の人」なのに、先方はなぜか私のことを「仕事もするけど、男女関係になるチャンスもある相手」とみなしているようでした。恋愛感情とまではいいませんが(そう考えるのもおぞましいし)、「その願望はセクハラです!」というに十分なアプローチが早くから見られました。
名刺を交換してすぐに、ファーストネーム+ちゃん付けでメールを送ってきた段階から警戒はしていたし、その都度かわしたつもりなのですが、先方の勘違いは止まらない。失礼にならないように、けれどきっぱり意思表示をするのが至難の業ということは、似た経験のある女性であれば共感いただけるでしょう。
なぜ私ははっきりノーをいえなかったのか……これはいまでも私にとって“ノドに引っかかった魚の小骨”です。日ごろコラムで「女性が主体となったセックスを」とかなんとかエラソーに書いているくせに、リアルな問題を前にすると私ってこんなにヘタレ。所詮ネット弁慶でしかないのか、と自己嫌悪どっぷりでした。
ノーをいえない女性が悪いのか
ただ、私なりにノーは伝えていました。露骨な“提案”があったときに、「彼氏がいますし、彼以外とはそういうことはできません」「そもそもお仕事関係の方とそういう関係になりません」と返しました。でも、これだけいっても、まだピンと来ていない様子……。
内心では「彼氏がいるからとか仕事関係だからとかじゃなく、そもそもアナタ自身が男としてナシなんですけど!!!」と中指を突き立てているのですが、そこまではいえません。その理由は、理不尽な怒りを買うとその後が面倒だと感じていたのと、仕事で不利益を被りたくなかったからです。
ファック!!! と嫌悪感をぶつけて拒絶できない自分がほんとうに情けなく、これでは付け入られても仕方ないとも感じました。拒絶しない=結局は相手を許容していることになるのではないか、と。しかし、『部長、その恋愛は~』で、
ノーが言いにくいこと、はっきりしたかたちではなかなかノーが言えないことは、報復のおそれを計算する前に、多くの女性たちに埋め込まれている反応でもある
という一文に出会い、目からウロコが落ちました。断れば報復される、という恐怖心が女性のなかにあるというのは大前提。しかもその報復とは、解雇や不当な人事異動といったあからさまなものだけではなく、「覚えが悪くなる」「気まずくなる」ことで結果的に女性が仕事をしづらくなる、居場所がなくなるということまで含まれると、解説されています。女性にとっては十分な打撃です。
しかしそれ以前に「女性はノーをいいにくい性」であるとは、これいかに。同書によると、
望まない、あるいは不快な性的な誘いや働きかけに、「逆らわずにいる」ことで女性は拒否のメッセージをあらわそうとする傾向を持っている。
とのことで、はっきりノーをいうことは、同書の著者のように、性暴力やジェンダーの問題を専門とする女性たちにとってもむずかしいことのようです。その理由のひとつが、次のように解説されていました。
はっきりと「ノー」と伝える言葉を日本の女性たちは持ちません。(中略)日頃は気づかない、ジェンダーによる言葉の縛りです。日本語では、とくに女性は、断定・言い切りの言葉を使いません。
たとえば痴漢をされている女性が加害者に「やめてください」というーー「やめろ」という命令ではなく、被害に遭っているのに“お願い”の形をとります。私も「こういう理由で、アナタとそういう関係になるのはありえない」とは伝えましたが、「こんなふうに誘うのは、もうやめろ」とはいえませんでした。これは自分の性格からくる個人的な体験だと思い込んでいましたが、長い時間をかけて男性社会が作り上げた「ノーをいえない女性」としての体験でもあったのです。
また、私は一連のやりとりのなかで最低の発言をしています。「もっと若くてかわいい子をお誘いになったらどうですか?」ーー本気で自分の被害を他人に押し付けたかったわけではありませんが(ハイそうします、と実効するような男でもないし)、人としてありえない発言だと、いった瞬間から後悔しました。が、
加害者をなんとか落ち着かせるにはどうしたらよいかを思い巡らせたり、加害者の気持ちを替えさせるため説得したりしようとしたりする者も少なくない
と同書にありました。私がしたことはこれだった、と気づきました。ああいってもダメ、こういっても通じない男性を相手に必死で格闘するなかで、出てきたひと言。がっぷり四つに組んだまま断りつづけ、疲弊していました。注意をほかに逸らし、その隙に逃げたかったのです。
被害を、被害として認識する
しかし男性からするとこれは「ノー」にはならず、「イケるかも」と勘違いを助長させることになるそうです。でも、追い詰められた自分の不用意な発言より、追い詰めた男性に非があるんじゃないか。私は本書を読んでそう思えるようになりましたし、「その場でノーと言わなかったくせいに後から言うのは卑怯、という見方は正当ではない」と断言する文に力を得ました。
「ヤラなかったら、不利益になるぞ」とはっきりといわれたわけでもないのに、私が自意識過剰なんじゃないかと悩んだことについては、男性は「あからさまな脅しをかける必要がないからです」というアンサーを見つけました。言語化されなくとも、そもそもの立場の違いが女性への「脅し」となりうる……このことへの理解が男性と女性とではまったく違うことが、悲劇を生んでいることがよくわかります。
当時、私が出した結論は「相手を無視する」でした。このセクハラについて裁判を起こして相手を糾弾したい、とまでは考えておらず、向こうからの要求がなくなればそれでいいのです。多くのセクハラ被害者も、相手を懲戒免職させたいとか社会的に失墜させたいとか、それが目的ではないといいます。ただ自分への接触、社会生活への侵害をやめてほしいと思っている女性も数多いのだと本書で知り、大いに共感しました。仕事上は正しい判断ではなかっらかもしれませんが、「断る」という形でもリアクションのあること自体が相手を勘違いさせるのだろうと考え、この結論に至りました。
この男はほかの女性にもセクハラするかもしれない、次のターゲットを見つけたから私へのアプローチをやめたのかもしれない……と考えると不本意ですが、被害をうけた側にそこまで求めるのも酷なように思います(自分でいっちゃうけど)。その代わり、次の被害者、そしていまセクハラで悩んでいるすべての女性に、この本を読んでもらいたいと思います。「私に隙があったからこんなことに」「私の態度が勘違いさせたのではないか」と自分を責めるのをやめ、自分の身に起こったことは“被害”なんだとちゃんと認識できるようになりますから。