リスキーだとわかっても、少女を愛する決断をする女――『私の少女』の“災厄としての愛”
◎少女がヨンナムに抱く慕情
同性愛的感情と言えば、この第3回で取り上げた『女と女と井戸の中』の、中年女・ヘクターと若いツンデレ女・キャサリンを思い出す。本作で積極的に相手を求めるのは年下のドヒだが、そこに性愛感情が含まれているかどうかはわからない。このあたりの描写は非常に注意深く繊細で、ギリギリのラインを保っている。
湯船の中で、感極まったドヒに突然抱きつかれ、戸惑いながらもその肩を抱くヨンナム。お風呂の湯気と涙が渾然一体となった中で、心身共に傷ついた少女と失意を抱える女が、裸で寄り添う姿は美しい。整った顔立ちのキム・セロンと、少女の面影を残すペ・ドゥナだから一層絵になる。
だがそれは同時に、非常にヤバい場面でもある。慕われ、求められているからといって、同性愛者であるヨンナムが未成年者の少女の体に触れたりすれば、「性暴力」と見なされる可能性があるからだ。もしヨンナムが異性愛者の男として描かれていたら、2人の関係が危険であることは容易に察しがつくだろう。大人同士なら問題なくても、相手が子どもであれば、権力関係で上に立つ大人の責任が問われるのだ。
それを押さえた上でも、ドヒが時折見せる小悪魔的な表情は、ヨンナムばかりでなく、見る者をも魅了する。彼女の心情は、強くて優しい「所長さん」への純粋なあこがれと思慕であろう、あるいは自分を置いて出ていった母の面影を求めているのかもしれない、いや母に捨てられたから、この人にだけは裏切られたくないという思いが強いんだろう、と思って見ていても、そこからはみ出すようなコケットリー(媚態)や熱いまなざしを目にすると、ドキッとさせられる。
部下の若い警官が最後にふと口にするように、思春期にさしかかったドヒの中には、本人も自覚しないどこか「怪物」的な魔力が潜んでいるのかもしれない。彼女は自分を守り愛してくれる人を、自らの周囲に巣を張り巡らせた蜘蛛のようにじっと待っていて、ヨンナムはまんまとそれに引っかかったという見方もできる。