リスキーだとわかっても、少女を愛する決断をする女――『私の少女』の“災厄としての愛”
◎社会から弾かれた女と家族から疎外された少女
この村にヨンナムが来た理由が、途中でうっすらと暗示される。ソウルでの勤務時代に同性愛者であったことが発覚し、左遷されたのだ(韓国は性的少数者にそこまで不寛容なのかと、あらためて驚く)。先輩の警察官からは、「決して問題を起こすな。1年我慢すれば戻れる」と釘を刺されている。
村に来てからの彼女は、昼間は所長としての仕事を真面目にこなしつつ、毎夜アルコールに頼らざるを得ない精神状態。スーパーで大量に酒を購入し、わざわざ水のペットボトルに移し替えて飲んでいるのは、「擬装」のためだ。それは、同性愛者であることを偽らねば生きていけないヨンナムの状況を、そのまま表している。
だから彼女の日常は、「ふりをする」という擬装行為に満ちている。大都市以上に性的少数者への偏見の強そうな地方の村で、同性愛者ではないふりをする。アルコール依存ではないふりをする。女だからといって舐められないように、強面のふりをする。感情を極力表に現さず、村人とも親しめない彼女は、完全に浮いた存在だ。
その心の中に唯一入り込んでくるのが、ドヒである。ヨンナムと違って、ドヒには「ふりをする」という手段も最初から奪われている。虐待は村人に知られているはずなのに、ヨンハに遠慮して誰も彼女を救おうとはしない。同じ世代の子どもたちにも虐められ、友達ひとりいない。そんな村で孤立していた者と、村に来て孤独な者との間に密かなシンパシーが生まれるのは、時間の問題だった。
ヨンナムの家に来て、暗かったドヒの表情は見る見る変わっていく。ヨンナムの作る料理を旨そうにパクパク平らげ、音楽に合わせて楽しそうに踊り、買い物に行けばヨンナムと同じ水着をほしがり、一緒にお風呂に入りたがる。この少女はこんなに明るく、茶目っ気があり、夢にあふれた女の子だったのかと思わされる。
これまで虐げられていた分を取り戻そうとするように、愛情を求めるドヒ。少女の無邪気さ、甘え、屈託のない笑顔が、疲れ切った大人の女を慰め、癒やしていくさまは微笑ましく描かれる。そもそも、自宅に保護する前、埠頭で1人で踊るドヒを、遠くからヨンナムが眺める場面がある。ヨンナムは比較的早い段階から、ドヒを意識しているのだ。だが、それが同性愛的感情だったか否かは、ヨンナム自身にもはっきりしないだろう。