リスキーだとわかっても、少女を愛する決断をする女――『私の少女』の“災厄としての愛”
――母と娘、姉と妹の関係は、物語で繰返し描かれてきました。それと同じように、他人同士の年上女と年下女の間にも、さまざまな出来事、ドラマがあります。教師・生徒、先輩・後輩、上司・部下という関係が前提としてあったとしても、そこには同性同士ゆえの共感もあれば、反発も生まれてくる。むしろそれは、血縁家族の間に生じる葛藤より、多様で複雑なものかもしれません。そんな「親子でもなく姉妹でもない」やや年齢の離れた女性同士の関係性に生まれる愛や嫉妬や尊敬や友情を、12本の映画を通して見つめていきます。(文・絵/大野左紀子)
■『私の少女』(チョン・ジュリ監督、2014) ヨンナム×ドヒ
最近よく、恋愛に消極的な若者が増えているといわれる。わからないでもない。はっきり言って、恋愛ほど面倒くさく、時間とお金とエネルギーを吸い取られるリスキーなものはない。時に心も削られる。蝕まれる人さえいる。かつてオザケンが歌った「愛し愛され生きるのさ」は美しいフレーズだが、現実問題として考えると、なかなかハードモード。
若者にはもっとほかに楽しいことがある、せねばならないことがたくさんあるじゃないか。周囲を見渡しても、恋愛で成長したような人はいない。そう考えて、リスク回避のために恋愛を(その先の結婚も)避けるということになる。
しかし、愛ほどコントロール不可能なものはない。どんなに慎重に避けていても、愛はある日突然やってきて人を巻き込み、気づいたらどうにもならなくなっているものだ。それは一種の災厄と言えるかもしれない。にもかかわらず、いざ我が身に起こった時は、不思議なことにそんなふうには思わない。それどころか、私たちは嬉々として、その災厄の中に飛び込んでいくのだ。一体なぜだろう。
『私の少女』(チョン・ジュリ監督、2014)は、「災厄としての愛」を選んだ女性の物語だ。
地方の小さな漁村の警察所長として赴任してきた、若いエリート警官のヨンナム(ペ・ドゥナ)。来て早々彼女の目に止まるのは、中学生と思しき痩せた少女・ドヒ(キム・セロン)。ドヒの母親は家を出ており、祖母と血のつながらない若い父・ヨンハ(ソン・セビョク)と3人暮らしをしている。
外国人を雇って漁業をしているヨンハは、やんちゃだが明るく頼れる青年ということで村では一目置かれている一方、酔うとドヒに暴力を振るう。自分を捨てた女の連れ子が、彼は憎いのだ。祖母も味方になってくれるどころか、ヨンハと一緒になってドヒにつらく当たる。一度はヨンハに警告したものの、ドヒの救われない身の上を案じて無力感を覚えるヨンナム。一方、ドヒは、自分を庇ってくれるヨンナムを慕うようになる。
ある夜、父の暴力に堪えかねて家から逃げたドヒを追いかけた祖母が、過って道路から海に落ちて死ぬ。その夜、雨に打たれて家にやってきたドヒを、ヨンナムは風呂に入れてやり、背中一杯に広がった痛々しい傷跡に驚く。虐待は日常的に行われていた。
ドヒへの同情心と庇護欲が高まったヨンナムは、連れ戻しにきたヨンハに、彼女を夏の間ここで預かると宣言する。大喜びのドヒ。こうしてヨンナムとドヒの関係は深まっていく。しかし、なぜ一時的にでもドヒを児童保護施設に送らなかったのか、という疑問も湧く。警察官が虐待されている子どもを自宅に長期間保護するのは、職務の範囲を超えているとみなされるのではないか。つまり、ヨンナムはやや脇が甘く、職務よりも個人的な情に流されている節がある。それは、彼女自身が深く傷つき、心に空洞を抱えている女性だったからだ。