「メンスあるの?」女性蔑視の男と時代が生んだ、元子爵の中年女性による「射殺事件」
◎女性蔑視が“常識”だった男と社会
慎太郎は周囲の誰もが認める親分肌で面倒見のいい人物だった。しかも強者に対峙し、弱きを助ける正義感の持ち主だったという。だが今回は“おせっかい”とも“押しつけ“とも思える行為が仇となった。
「お前はだらしない」と後輩の別れ話に対し介入し、深夜自宅に押し掛け泥酔し、今で言うセクハラ発言を連発して久美子を挑発した。
上司や先輩が後輩の面倒を見て、酒を飲み恋愛の相談にも乗る。現在では会社の人間関係もクールになり、おせっかいな上司は嫌われる風潮にあるが、だからこそこの事件は昭和という時代を反映したものだったのかもしれない。
慎太郎の発した言葉は今なら女性蔑視として糾弾されてしかるべきものだが、しかし当時の報道ではそうした視点はない。あるのは年増女性が年下の男にうつつを抜かし、仲介に入った慎太郎の言葉にヒステリックに反応した、というものばかりだ。
だが慎太郎の発した言葉は、当時の社会、そして男性の“当然の意識”だったはずだ。そういった意味でもこの事件は“不幸な偶発的”な要因が積み重なった事件といえよう。
久美子は逮捕後も一貫して「殺意はなかった」と偶発的なものだったと主張した。「私にはあの方を殺す理由などありません」と。確かにテープの内容を見ると、酔って挑発された久美子には瞬間的に引き金を引いてしまったように思えるし、恋人の幹人を殺すならまだしも、慎太郎を殺害する理由はなかったと考えるのが妥当だろう。
こうした事情もあったからか、一審二審と懲役8年の判決を下されたが、昭和51年11月の最高裁判決では懲役5年に減軽され、それから3年半後の昭和55年5月には模範囚として仮出所している。
その後久美子は日本橋にあった雀荘の経営を再び始めたという。そしてその美貌も相変わらずのものだったようで、一部のマスコミは出所後の久美子の姿を追跡しているほどだ。
事件後、事件の発端を作った久美子の恋人・幹人は日商岩井を退社し、父親が役員を務める会社に就職、結婚、子どもにも恵まれた。また子どものなかった慎太郎の妻もその後再婚、出産したという。
■参考資料
「週刊新潮」(昭和49年1月10/17日合併号 昭和49年1月24日号)
「週刊文春」(昭和49年1月14日号 昭和51年12月23/30合併号)
「週刊ポスト」(昭和49年4月26日号)
「週刊女性」(昭和49年1月19日号)
「微笑」(昭和49年1月26日号)