最低賃金が1,300円になれば風俗嬢は激減する 風俗から見る女性の貧困と格差問題
風俗に関する書籍が近年、様変わりしている。風俗嬢の素顔をのぞき見したり刺激的な裏話で男性の性的好奇心を刺激するようなものは下火となり、代わりに風俗の現場を通して女性の貧困問題、労働問題などの社会問題を掘り下げる内容のものが増えている。
いま、多くの女性たちが、この職業をなりわいにしようとしている。求人を出せば、幅広い年齢層の女性から応募が殺到する。働く女性が多くなるほど「女性の裸の価値」が下がり、報酬も下がる。『熟年売春ーアラフォー女子の貧困の現実』(ミリオン出版)をはじめ風俗関連書籍の出版が相次ぐ中村淳彦氏と、150人超の風俗嬢を取材し『風俗嬢という生き方』(光文社)を著した中塩智恵子氏のように、長年、風俗業界を見てきた人ほど、その変わりように危機感を覚えている。両氏は、いまの風俗業界とそこで働く女性たちを見て何を思うのか?
■女性の貧困化が進み、風俗嬢があふれている時代
中塩智恵子氏(以下、中塩) 私は1990年代後半から2000年代半ばまで、アダルト系求人情報誌などで風俗嬢インタビューや風俗店取材をしていて、2014年に取材を再開しました。そのとき、時代は変わったんだと衝撃を受けましたね。かつては雑誌やスポーツ紙に顔出しをして有名になり、月に100万、200万と稼ぐ風俗嬢がザラにいましたが、現在はそういう子は少なくなりました。ヘルスでの「顔射」や精液を飲む「ごっくん」プレイなど、当時はオプションとして料金を追加しなければならなかった過激なプレイが、いまは基本プレイに組み込まれているところも多くて、そこまでしないと稼げない商売になったんですね。
中村淳彦氏(以下、中村) いまはデリバリーヘルス(デリヘル、派遣型ファッションヘルス)が主流です。届け出制になって実質的に合法化されて、男性の需要を遥かに上回る店舗数になってしまった。需要と供給のバランスが崩れてデフレになっています。おそらくデリヘルの半分以上が激安店です。お店がぎりぎりまで価格を下げて、60分のサービス料が8,000円以下というところも珍しくはない。女性の数が多いと1人当たりにつく客の数も当然減るので、本当に稼げない。中塩さんの本には、上から目線で態度の大きい売れっ子風俗嬢が出てきたけど、ああいう子って見なくなったよね。2000年前後ならではですよ。
中塩 若くてルックスがよくて稼げる子は、お店のスタッフがちやほやするので、女王様的な態度になりがちでしたね。以前はお店が女の子に頭を下げて働いてもらう感じ。それがいまでは逆転して、女の子がお店に頭を下げて働かせてもらう感じになりましたよね。
中村 「なんで私がこんなことしなきゃいけないの」ってふてくされた態度でサービスをして客がイヤな思いをする、というのが“あるある”でしたね。でも、いまはそんな接客じゃ通用しません。顧客満足度を上げてリピーターを獲得できる女性以外はやっていけない厳しい世界だから、売れている子はたいてい常識的です。
中塩 デリヘルではお客さんがつくまで、ほかの女の子たちと一緒に待機場で過ごしますから、そこの和を乱すような女の子や、結果を出せない女の子はお店も置いてくれなくなります。男性の需要を上回る数の女性が風俗で働いているいま、わざわざそんな子を雇う理由がないですもんね。
中村 女性同士の競争が厳しくなったがために、格差も開いていく一方だよね。そのいちばんの原因は、いま中塩さんがおっしゃった通り、女性の供給過剰です。そして、その背景にあるのは女性の貧困問題ですよ。これがもうシャレにならないところまで来ています。
中塩 『熟年売春』の第一章に登場するふたりの女性のエピソードが象徴的ですね。月の収入が10万円に満たないのに風俗以外の仕事ができない53歳の女性に、生活に行き詰まってAVに出演した66歳の超熟(55歳以上)女優……。
中村 やっぱり風俗とか売春は女性の最後のセーフティネットであるべきで、そうでなくなってしまったのは大きな問題です。『熟年売春』の女性たちみたいにカラダを売ってもお金にならないとなると、完全に詰んじゃう。女性なら裸になれば誰でも稼げるという時代はとっくに終わっていますが、それでもこの業界の門を叩く人が後を絶たないのは、配偶者がいない女性が増えているのに「扶養されているので、安く働くだろう」という社会の認識が継続しているのと、女性の非正規労働に希望がなさすぎるからです。多くの非正規職より、まだ、風俗のほうが正当な賃金をもらえる可能性がある。一般社会に希望がなくなってしまっているんです。
中塩 入店直後は、店側も新人に優先してフリーのお客さんをつけるので一時的には稼げますが、その期間が終わるころには、稼げる人と稼げない人が分かれています。それでも少ないながら、風俗で成功して人生一発逆転する例がある限り、あわよくばという思いを抱くのは自然なことだと私も思います。