どん底・絶望・依存の果ての「希望」とは? 高浜寛『SAD GiRL』の残酷で美しい世界
女子マンガ研究家の小田真琴です。マンガ大国・日本においては、毎月1000冊前後ものマンガが刊行されています。その中から一般読者が「なんかおもしろいマンガ」を探し当てるのは至難のワザ。この記事があなたの「なんかおもしろいマンガ」探しの一助になれば幸いであります。前編では昨今の話題にからめたマンガをご紹介します。
◎高浜寛『SAD GiRL』の美しさ
今さらあらためて語るまでもなく、薬物依存は恐ろしいものであります。元プロ野球選手の一件はもちろん衝撃的ではありましたが、しかしおそらく彼が薬物に手を出す以前に彼の人生は変調を来していたはずであり、そして依存症は狂い始めた人生をますます狂わせていきます。
人生がうまく回っていないとき、人はたいてい何かに依存しているものです。それはアルコールかもしれないし、睡眠導入剤かもしれないし、違法な薬物かもしれない。あるいはセックスかもしれないし、宗教かもしれないし、人間関係かもしれない。隙あらば人はあらゆるもの/ことに依存します。高浜寛先生の『SAD GiRL』(リイド社)はそんな依存症の見本市のような作品。閉塞感に満ちたこの物語は読んでいて決して心地の良いものではありませんが、しかし読後のこのカタルシスときたらどうでしょう。
主婦・村上詩織は睡眠導入剤の過剰摂取により病院に救急搬送され、そして翌日家を出ました。友人やかつての恋人の部屋に転がり込んでは、そのたびにより深い泥沼にはまり込み、やがて逃げ道を失います。ついには忌み嫌っていた実家へと帰るのですが、そこには相も変わらずカルト宗教に熱中する過干渉な母親がいるだけでした。
この世界では誰もがすることなすことうまく行かずに、何かに依存することでやっとのこと生きています。読むうちに私は自分の人生がうまく回っていなかった頃のことを思い出して、とてもつらい気持ちになりました。なぜに高浜先生はこうまで苛烈な物語を描かねばならなかったのでしょうか?
それは何よりも「希望」を描きたかったからに他なりません。真に強度のある希望は消去法によってしか得られないからです。真っ白な紙を、ああでもない、こうでもないと塗り潰した果てに、かすかに残った白い点。それこそが希望です。そして絶望をくぐり抜けてきた希望は、薄っぺらで根拠のないポジティブなだけのベッキー的な何かとはまったく性質を異にするものです。
物語の後半、母親から逃れて思い出の地、阿蘇山へと向かった詩織は、そこで亡き父の幻影と語り合います。「ほらごらん詩織、雄大だねぇ。すごいねぇ。こんな景色があるなんて」「怖い…」「さぁ詩織、一人で立つ練習をしよう」「いや! やだ、怖いよ!!」「パパもできる事ならずぅっと詩織を抱っこしててあげたいんだ。でももうすぐできなくなる」「何で…?」「見て」と父が視線を遣る先には、父の葬式で泣き崩れる母の姿。「ママ…」「一人で立つんだ、自分の足で、人との関係や物に依存せずに。本当は詩織にも分かっているはずだよ。いつかは卒業しなきゃいけないんだ」「いやだパパ、行かないで!! やろうとしてもいつもダメなの。一人でなんて立てないよ!」。依存の泥沼から抜ける道はただ1つしかありません。それは1人で立って歩くことです。
詩織の冒険は直後に悲劇的かつ喜劇的な結末を迎えるのですが、物語はさらに二転三転します。そこは実際に読んでいただくとして、一度はほっとさせておきながら、最後の最後にもっとも厄介な人の心の闇を垣間見せるストーリーテリングは、残酷ですが巧みです。何も終わってはいませんし、何も解決しません。しかしこの先にあるのは間違いなく希望。「生きていこう。まるで一度も挫折したことがないかのように」――『SAD GiRL』は、絶望のどん底からかすかに仰ぎ見える一筋の光を描いた、世にも美しい作品であるのです。
表題作ほか4編を収録。国内外で高い評価を受ける短編作家、高浜先生の面目躍如であります。新境地を開拓しつつある同時発売の長編『ニュクスの角灯』|(リイド社)も併せてぜひ。
小田真琴(おだ・まこと)
女子マンガ研究家。1977年生まれ。男。片思いしていた女子と共通の話題が欲しかったから……という不純な理由で少女マンガを読み始めるものの、いつの間にやらどっぷりはまって、ついには仕事にしてしまった。自宅の1室に本棚14竿を押しこみ、ほぼマンガ専用の書庫にしている。「SPUR」(集英社)にて「マンガの中の私たち」、「婦人画報」(ハースト婦人画報社)にて「小田真琴の現代コミック考」連載中