加護亜依の苦しみを宇野千代・田辺聖子が受け容れる! “女”のトリセツこと「婦人公論」100年の重み
今号の「婦人公論」(中央公論新社)は、前号に引き続き100周年記念のお祝いムード。今号の特集は「女の節目の乗り越え方」、キャッチには「『婦人公論』100年の知恵から」とあります。
まずはおなじみ読者アンケート企画「あなたの人生の転機は何歳?」からレビューをスタートしましょう。「幸せな節目」と「つらい節目」は、それぞれ何歳のときにどんな形でやってきたかを問うもの。ちなみに「幸せな節目」のトップ3は、「1位こどもの結婚」「2位孫の誕生」「3位自分の再婚」。「45歳:すでに2歳になる孫がいたけれど、再婚をした。式を挙げ、いくつになっても憧れのウェディングドレスを着て孫を抱いた私は、最高に輝いていました」(64歳・主婦)など、自分の思い込みでハッピーは作れる~といった感じのポジティブコメントが並びます。
一方「つらい節目」には、病気、死、不倫、借金など目を覆いたくなるものばかり。「68歳:夫の経営していた会社が倒産。仕事、家、不動産すべてを失う。その翌年、夫が目の前で倒れ、亡くなった」(71歳・主婦)、「50歳:夫のダブル不倫が判明。夫は中学教師で、相手も別の中学校の教師。しかも、夫の元教え子」(68歳・無職)。あぁ、ここは中年女性たちのケータイ小説か。どんなに不幸が連鎖しても、女たちは思い込みでたくましく生きていくのです。
<トピックス>
◎特集 女の節目の乗り越え方
◎加護亜依 私と同じ生き方だけは一人娘にさせたくない
◎「婦人公論」アーカイブ
■加護ちゃんにも聞こえてくる「負けないで」
特集「女の節目の乗り越え方」は、おフランスの風をかましながら女の自立を説く女優・岸惠子のインタビュー「どんな苦境でも自由と孤独を味方につけて」や、「婦人公論」100年の歴史で登場した各界の著名人たちのありがたきお言葉集「折々に思い出したい『婦人公論』に刻まれた希望の言葉」などで、24時間マラソンのラストに流れる「負けないで」(ZARD)のように読者を励まし、応援しています。ほらそこにゴール(天寿)は近づいている……!
ルポ「アラウンド100歳大集合! 元気の秘訣はなんですか?」など、昨今の特集でも極めて平均年齢高そうな登場人物の中で、ひとりこの方だけが20代。元モーニング娘。の加護亜依です。題して「私と同じ生き方だけは一人娘にさせたくない」。
加護といえば、喫煙写真をきっかけに人気アイドルの座から転落。その後はいかにもやばそうな実業家男性と交際、あぁやっぱりといった具合に男性は逮捕され、そろそろ目を覚ましてくれという段階でその男性とでき婚、さらに加護への暴力で再び逮捕され(後に不起訴処分)、やっとようやく夫との離婚が成立……。まるで吸い込まれるように不幸へと進んでいった女性。現在シングルマザーとして子どもを育てながら、芸能界復帰に向けて動き出しているようです。
本当に今年28歳なのか、本当に辻希美と同い年なのかと疑いたくなるほど、憂いと疲れと肝が据わったお姿。モー娘。時代を「小さいなりに考えました。何か嫌なことがあっても泣いちゃダメ。人の足をひっぱっちゃダメ。嫌われたらダメ、と。(中略)一所懸命背伸びして、それでも周りから可愛がられるように精一杯がんばったつもりです」と振り返り、一人娘の将来については「私のようにさせてはいけないということ。とにかくこれが基本です(笑)。もし娘が10代で芸能界に入りたいと言ったら、絶対にダメと言いますね。10代には10代にしかできない経験がたくさんある」。世間を知らない年齢を芸能界という特殊な世界に育ち、欲とカネにまみれ、これほど痛い思いをしてもなお「芸能界にきちんと戻ることだけを考えていきたい」と、その世界から離れることはできない。片や炎上をカネに換えてブログで何百万円と稼ぐママタレ、片や「あの人は今」のカテゴリーに入ってしまった元アイドル。まさかW(ダブルユー)の未来がここまで違うものになるとは。
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■パッションモンスターと妄想少女からの援護射撃
しかし28歳の加護は、「婦人公論」ではまだまだひよっこです。続いては、「『婦人公論』アーカイブ いま読み返したい珠玉の掌編」を見てみましょう。明治生まれのパッションモンスターこと宇野千代の「女のいのち」、そして元祖妄想少女こと田辺聖子の「女はみんな才女である」です。
ある日、深夜の駅で若い男女が別れのあいさつを交わしているのを見た宇野、「もっと前でしたら、多少とも、ちえっと思ったりして行き過ぎるところですけど」、そのときは女性の着物の美しさに見とれてしまったそう。若い女を競争相手として見なくなってから、「若さ」の本質がわかってきたといいます。「若い人の生き生きした行為の中には、このトンボを千切る子供みたいな残酷さがあります。生きてるトンボは千切らないように、と心を配っていますと、少なくともある種の行為はいじましく、いじけて、溌剌とした感じがなくなってしまうのではないでしょうか」「いまになって考えますと、自分の過去で、『生きていた』と思うことは、そう言う種類の事柄ばかりです。(中略)あのときは思わずそうした、考える隙間がなかった、と思うほど速い、速力のある行動ほど、『生きていた』と言う感覚が強いのです。悪かったかも知れない、しかし後悔はみじんもしない、と言う感覚です」。
一方「女に生まれたらみんな才女である」と言い放つのは田辺。彼女のいう「才」とは文芸やアートにおけるそれではなく、「もっといきいきしたもの、ビクッ、ビクッと息づいて震えているような皮膚感覚、あるいは地下水のごとく滲透し、形もなく、いまだ人に知られず、したがって名づけられたこともなく、しかしあることは歴々として疑いもないもの―それはオール女性がひとしく神から恵まれた『女の叡智』なのです」。
女は生まれながらにして「女」という才能を持っている。それは前号で作家あさのあつこが語っていた「女性の内側や内面は、これまで社会のなかでは些細なことだと軽んじられてきました。ですが女性の本音は、男性の建て前よりずっと強靭」という言葉にも通じるもの。肉体的も社会的も弱い立場に置かれた女性たちが、生き残るために身につけてきた武器。しかしその武器は、時に自分の手で暴発する危険もあるほど扱いが難しいものであり、「婦人公論」という雑誌自体がその「女という才」の取り扱い説明書なのかもしれないと思った次第です。
この2人からのメッセージから感じるのは「女はワガママ、女は残酷、女は野性、女は恥知らず、そして女は最高」。加護ちゃんをはじめ、やらかしちゃった女たちが「婦人公論」で過去を語るのは、教会の懺悔部屋で告解するのと同じ。社会的な制裁を受けた女たちが、100年かけて受け継がれてきた「女とはそういう生き物」と開き直る「婦人公論」に行きつくのです。自分の人生を開き直れない若い人たちに「それが若いってことやで~」「女はみんなそんなもんやで~」と語り掛ける「婦人公論」。加護の苦しみを宇野・田辺が受け容れる、老舗雑誌の威力のようなものをまざまざと見せつけられました。
(西澤千央)