男に振り回された女は、別の男を振り回す――『夏の裁断』が描く連鎖する男女の快感
好きな異性に傷つけられることで、快感を得る人がいる。SMというプレイにおいて「マゾヒスト」と呼ばれ、肉体的に痛みを得ることで興奮し感じる者もいれば、精神的な痛みを欲するという人もいるだろう。例えば、浮気を繰り返すダメな男にばかり惚れる女。男に何度も何度も裏切られ、傷つけられることで病んでいくが、その痛みが快感に変わってしまうのだ。
今年、第153回芥川龍之介賞の候補になった本作『夏の裁断』(文藝春秋)は、そんな“病んでる”女流小説家・千紘が主人公の物語だ。
千紘がとある出版社のパーティで、恋心を抱きながらも振り回されてきた編集者の柴田をフォークで突き刺すというショッキングなシーンから、物語は始まる。衝動的に柴田を刺してしまった千紘は、休養も兼ねて鎌倉へ向かった。亡き祖父が収集した本を裁断してスキャンし、デジタル化する「自炊」という行為をしてひと夏を過ごす。
柴田と知り合ったのは2年前。とある作家の授賞式に出席し、二次会に移動しようと思った時に声をかけられ、初対面にもかかわらず、胸を触られたのだ。そんな彼から、何事もなかったように仕事の依頼を受け、気がつくと千紘の心は彼に支配されていた。
気まぐれに千紘を呼び出し、カラオケ屋でキスをし、「俺とやりたい?」と訊く柴田。幼い頃に性的なトラウマを抱えてしまった千紘は、強引な彼の手段を拒絶することができない。それどころか、奔放な彼にどんどん心を奪われてゆく。
そんな千紘に思いを寄せる男がいる。イラストレーターの猪俣だ。千紘が仕事を休んでいることを知った猪俣は、千紘に会うために鎌倉までやって来た。千紘の作品のファンだという彼と、流されるままにセックスをする。精神が崩壊するほど柴田を愛しているのに猪俣と寝るなど、千紘の想いと行動はバラバラになってゆく。そんな自分から解放されるために、千紘は柴田と決別しようと決心するのだが――。
帯に記されている「悪魔のような男」とは柴田のことである。甘いデートの後日に冷たく接するなど、非常に気まぐれな彼の行動は、千紘を混乱させ、男を刺すほどまでに追い詰めたが、第三者から見るとごく一般的な身勝手な男のように思う。むしろ千紘は、自ら進んで柴田の手のひらで転がされようとしていたと感じるのだ。彼の手中にはまり、混乱することで千紘は快楽を感じていた――柴田を「悪魔のような男」にしたのは千紘自身ではないだろうか。
そんな千尋だが、彼女もまた「悪魔のような女」だった。猪俣を都合のいいセックスフレンドのように扱うことで、彼の純粋な気持ちを傷つけたのだ。
柴田に傷つけられること、猪俣を傷つけること、どちらからも快楽を見いだしていた千紘。こうした快楽の連鎖は、男女間において無意識に行われていて、その痛みに快楽を感じてしまうからこそ、私たちは恋愛を重ねるのだろう。傷つけたい、傷つけられたい――本書は、人々の説明しがたい複雑な本能を明らかにしているのではないだろうか。
(いしいのりえ)