男を惹きつけるブスでデブのババア――女の醜い嫉妬や怒りを引きずり出す『黄泉醜女』
自分の欲求を満たすためならば手段を選ばない女がいる。関係のあった男性から金銭援助を受けるも、お金がなくなったら殺害してしまう、しかも1人ではなく複数……そんなニュースが流れると、「ひと昔前の日本の女たちは、男の半歩後ろを歩き、男たちの支えになることに喜びを感じていたのに」と思う人もいるかもしれないが、日本神話の時代から女は恐い生き物であった。
今回ご紹介する物語の表題になっている『黄泉醜女(ヨモツシコメ)』(扶桑社)は、日本神話に登場する、黄泉の国の鬼女である。約束を破り、腐敗したイザナミの姿を見て慄いた夫・イザナギは、激怒したイザナミに命じられた醜い黄泉醜女にどこまでも追いかけられる――その様子は、私利私欲のためならば手段を選ばぬ女の化身のようだ。
物語は、ひとつの事件を主軸に動き出す。婚活連続殺人事件で死刑判決を受けた春海さくら。100キロ以上もあろう体躯を持ち、重たそうな瞼と愛嬌のない顔を持つ。三十代後半までほとんど職に就かず、男たちから貢がれた金を遣って豪華な暮らしをしていた。
そんな彼女の本を書かないか、と打診されたのが、物語の主人公である桜川詩子だ。官能小説を書く女流作家は、作品はもちろんその容姿にも注目される。彼女もさくらのように容姿には恵まれておらず、ネットで散々こき下ろされ、その容姿を「さくらと似ている」とまで言われていた。詩子は、そのことをコンプレックスに感じ、かつ容姿に恵まれたほかの女流官能作家に対して嫉妬心を抱いていた。
さくらの本の話を打診してきたフリーライターの木戸アミと共に、詩子は、さくらに関わってしまった女性たちにインタビューを行う。そして彼女たちそれぞれに、“女としての渇望”を垣間見るのだ。
例えば、若い女性を囲いナレーションやイベント司会などの派遣会社を経営している39歳の由布子は、高級料理教室でさくらと出会った。富を得て、若いセックスフレンドもいる身だが男をつなぎとめるため、由布子は金を与えていた。身一つで男たちから金を貢がせるさくらとは対照的に、金を渡してセックスを“買って”いることに、由布子は戸惑う。そして彼女は、同時に持病のため子宮を失くしたことにコンプレックスを抱いている。
さくらと親友関係に会った42歳、パートタイマーの里美。学生時代にさくらとつるみ、地元では「ブス」「デブ」と陰口を叩かれるグループに属していた。しかし、同じ容姿を持ちながらも、さくらは常に男の気を引く行動を取り、さらには売春をしているといううわさまで広がった。里美はさくらへの嫉妬から、ダイエットと整形手術を繰り返し、その感情から解放されようとした。
ブスで、デブで、ババアとして醜く描かれるさくら。そんな彼女が、なぜ男たちに貢がれ、傅かれるような存在になったかは、本作では語られていない。しかし、理由がわからないこそ余計に、さくらのような存在を目の当たりにした女たちが、同性としてやるせないほどの強烈な嫉妬に駆られるのがよくわかる。
さくらは、女の「男たちを悦ばせたい」「そのために美しい容姿でいたい」という欲望を引きずり出す。また、女に生まれてきた者が男を惹きつけるのは当然のことであると思わせるのだ。しかし、男を惹きつけることなど、そうやすやすとはできないもの。女たちは、その事実に気づき、さらにさくらに脅威を抱いてしまう。さくらのような目に見える努力もなく、「ただ女として生きてきただけ」という醜女に、私たち女はどう太刀打ちをすればいいのだろう? と。
本書の帯のキャッチコピーがずしりと胸に刺さる。「女は 所詮 皮一枚」。美に対して無頓着であるさくらの存在は、「女」という性に翻弄され、表層の美しさに縋ろうと必死に努力をしている私たちをせせら笑っている。だから腹が立ち、嫉妬をするのだ。本書のタイトルである『黄泉醜女』は、さくら自身を指しているようにも、そして彼女に関わることで醜くなってしまった女たちを指すようにも感じられた。