指一本で表現される静謐ないやらしさ――川端康成の『雪国』を“官能”として読む
■今回の官能小説
『雪国』(川端康成、新潮社)
日本の名作純文学の中には、実は「性を美しく表現した」作品も数多く存在している。中高時代に課題図書だった作品や、幼い頃に教科書で目にした作品を、大人になってから読み返すと、その繊細な性描写に圧倒されることがある。年を重ねてからこそ気づける機微――大人になるとジャンクフードを敬遠して、出汁の染みた煮物を欲しがるように、私たちの感性は日々少しずつ変化している。
今回ご紹介する『雪国』は、川端康成の代表作としてあまりにも有名だ。冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は、現在も“名文”として語り継がれている。
家庭を持つ文筆家である島村は、冬の日、汽車で東京からとある雪国へと向かう中、病人に付き添う若い娘・葉子に出会い、強く興味を持つ。北国の温泉場に着いた島村は、駒子と再会する。彼女とは、去年の5月、初めてこの温泉場を訪れた際、一度は断わったものの結局一夜を共に過ごしたのだ。
島村は、葉子と駒子が知人であったことを知る。葉子が連れ添っていた病人・行男は、駒子の許嫁だというのだ。そのことを問いただすと、駒子は許嫁ではないと訴え、島村のために美しい音色の三味線を聞かせる――そのとき島村は、駒子の島村に対しての愛情を知るのだった。しかし、翌年の秋。再び島村が駒子のいる温泉宿を訪れると、彼女には夫同然の男がいることを知らされる。
しんしんと積もる雪のように、淡々とつづられる物語『雪国』。そこに描かれている男女の描写は実に繊細で、読者の胸を強く打つ。特に筆者の印象に残っているのは、冒頭の汽車の中で、島村が駒子を思うシーン。島村がこれから会いに行く駒子のことを思いながら指を動かし、眺めている描写である。その後島村は駒子に再会して、「この指が覚えていた」と告げるのだが、これはつまり、自らの指を動かすことで、駒子の体の感触を思い出そうとしているわけである。直接的ではないけれど、実にいやらしくて、かつ愛らしい描写のように思う。
本作には、決して派手な描写はないけれど、こうした静かな言葉の一つひとつに、熱い思いが込められているようで、文字を追うごとに心も体も温かくなる。この感覚は、歳を重ねた読者たちの恋愛にもシンクロするのではないだろうか。若い頃は、1秒でも長く好きな男と時間を共有したかったけれど、歳を重ねると、汽車の中での島村のように恋人を思いながら1人で過ごす時間も、有意義だと思えるようになる。ただただ相手の顔色を窺う恋愛だけでなく、相手を思う自分自身の感情と対峙してから、相手と冷静に向き合うのは恋愛の趣ある一場面のように感じられる。
今から78年も前に出版された本作。遠い過去のとある雪国の男と女に思いを馳せながら、自分の感情と対峙してページをめくるのは、極上の時間のように思う。