男社会のヒップホップ界で、性を前面に出す“小悪魔ビッチ”を確立させたリル・キム
ビギーは自身のデビューアルバム『レディ・トゥ・ダイ』(94)が大ヒットしたことを受け、ジュニア・マフィアのデビューアルバムのプロデュースを開始。キムが多くのリードを歌ったアルバム『Conspiracy』(95)は大ヒットとなり、アポロ・シアターでのパフォーマンスでは、迫力あるラップで観客を圧倒。ビギーは、「キムはネクスト・ビッチだ!」「クイーン・ビーにする」と大喜びし、キムをソロアーティストとしてデビューさせようと決心。大手アトランティック・レコードと契約を結ばせ、ファーストアルバム制作に着手した。ビギーは彼女が1人になってもキャリアを積み重ねられるよう、リリックを書かせたり、プロデュースに参加させたり、全面的にサポート。しかし、大きな問題が起きてしまう。キムがビギーの子を妊娠してしまったのだ。
つわりのせいでアルバム制作は頓挫。彼女は出産を希望したが、ビギーは「今はダメだ」と拒否。ほかのプロデューサーたちも、「愛に生きると決めたのなら、それはリスペクトする。でもアーティストとして成功を勝ち取るのなら今しかない」と助言。最終的にキムは自分の意思で中絶し、吹っ切れたように振る舞い、性を前面的に押し出すビッチ路線を突き進むことを決意した。プロモーションのポスターはヒョウ柄のビキニでM字開脚するというもの。これまでの女性ラッパーとは異なり、セックスシンボルとしてスタイリッシュな小悪魔ビッチを演じた。リリックも男性ラッパーのようにセックスや金儲けの内容が中心で、ファーストアルバム『ハード・コア』(96)はアメリカで140万枚を売り上げた。
リルと同時期に女性ラッパーとしての人気を博したフォクシー・ブラウンとは同じ路線だったため、このライバル関係は“ビッチのビーフ”として大きな話題に。なお、2人は実は学校の同級生であり、話題になるためあえてビーフをしていたのでは、という見方も強い。
[バッシング・評価]
ヒップホップ・カルチャーに新しい風を吹き込み、「セックストーイ」を名乗ったリル・キムは、「ブラック・マドンナ」と、たちまち人気者になった。しかし私生活ではビギーとの関係に悩み、最悪な精神状態だった。ビギーの一番の愛人を自負していたのに、新しく現れたラッパーのチャーリー・バルティモアにその座を奪われつつあったからだ。ビギーはキムを避けるようになり、彼女の精神状態は限界に。しかし、97年3月8日、リルはロサンゼルスに滞在していたビギーから電話で、「これまで傷つけてきてごめん。これからは2人だから」と愛を告げられ、有頂天に。ところがその翌日、ビギーは襲撃され、24歳の若さで死亡。キムは打ちのめされ、うつ状態になり、周囲は後追い自殺するのではないかと心配した。
そんな彼女を支えたのは母、兄、従兄たちやジュニア・マフィアの仲間だった。そして、ファーストアルバムでコラボした女性ラッパーのミッシー・エリオットらのサポートを得て復帰。「ビギーならこう考えるだろう」と、ストリートビッチの雰囲気を残しつつきらびやかに、セクシーに変貌していく。ファッションに大金を注ぐようになり、ヴェルサーチやシャネル、グッチなどのブランド服を買い占め、大量のウィッグを購入。2,500足以上のヒールを所持し、100枚を超えるミンクの毛皮コートを持ち、1,000万円クラスのジュエリーを身に着け、メルセデス・ベンツのGクラスやジャガーなどの高級車に高い金をかけてカスタマイズしたり、愛犬にも60万円以上のミンクコートを着せるというゴージャスな生活を送るようになった。