父親へのわだかまり、母親への「ごめんね」――団塊オトコが“子ども”になる介護
平川克美氏(左)、岡野雄一氏
団塊オトコの矜持も見た。オトコの介護本で注目され、今回の対談にもつながった2人だが、そんな自分の姿を「ヤバい」(岡野さん)、「危うい」(平川さん)と戒める。団塊オトコらしいと言えばそうなのかもしれない。特に、岡野さんは「“介護の人”として、そこに寄りかかってしまう」ことに危機感を持っていると言う。「自分の周りの人だけを笑わせていればよかったのに、その延長線上に出るのが怖い」とも。実業家として多方面で活躍する平川さんはまだしも、『ペコロスの母に会いに行く』は映画化もされ、とっくに全国区の岡野さんをしてそう言わしめるものは何だろう。「介護をしているなんて偉そうなことは言えない」と「母に“会いに行く”」という控えめなタイトルが象徴するように、どんなに全国区になろうと、大上段に介護を語る“介護の人”にはなりたくないという岡野さんの静かな抵抗なのかもしれない。
ところで岡野さんは、みつえさんに「胃ろう」をつける選択をしている。それを知ったとき、正直なところ「なぜ?」と思った。「胃ろう=悪」という図式が頭にあったからだ。しかし、みつえさんが生きていてくれたおかげで、『ペコロスの母の玉手箱』の数々の豊潤なシーンが生まれたのだと思うと、胃ろうもひとつの選択で、正解はなかったのだと納得させられた。
やはり父親への胃ろうを選択した平川さんが、「介護にゴールがあるとしたら、それは死」だと言えば、「そのゴールを長引かせるのが胃ろう」だと岡野さんが続ける。「ボケるとも悪かことばかりじゃなかかもしれん」とは漫画の中の岡野さんの言葉だが、「ゆっくりと衰え、ゴールにたどり着く」という意味では、認知症も悪くはないし、そう恐れなくていいのかもしれない。岡野さんは“介護の人”にはならないし、なれないと思う。じゃあ、何の人になるのか。それは今後の『ペコロス』が答えを出してくれるだろう。
(坂口鈴香)