菅原文太さん、故郷・仙台ではなく“太宰府天満宮”に眠ることになったワケ
昭和を代表する俳優・高倉健さん(享年83)に続いて、昭和映画史に名を残した俳優・菅原文太さん(享年81)もこの世を去った。1つの時代の終わりを感じた出来事だった。
菅原さんは宮城県・仙台で生まれ、早稲田大学を中退して芸能界に飛び込んだ。最初はモデル。そして当時、青春映画を作っていた新東宝入社。その後、東映の任侠映画に対抗して、ヤクザ映画を作ることになった松竹にスカウトされ、東京・渋谷の暴力団「安藤組」の元組長・安藤昇が自身の自叙伝を映画化し主演を演じたが、菅原さんは子分に抜擢。しかし「女優王国」が売りだった松竹に「ヤクザ映画」は馴染めず、すぐに撤退し、安藤が東映に移籍することになり、菅原さんを引っ張っていったという。これが菅原さんの転機となり、大スターになっていく。
私はかつて松竹に勤めており、当時から菅原さんとは面識があったが、寡黙で礼儀正しい人だった。私はその後松竹を退社して週刊誌記者になったが、十数年たった頃、東京・六本木の河豚料理店でお偶然にお会いし、名刺を出してご挨拶したことがあった。菅原さんは、オレの名刺を見て「松竹、辞めちゃったんだ」と言ってくれたが、私のようなアルバイトの宣伝マンを覚えていてくれたことが、とてもうれしかった。
そんな菅原さんの逝去において、気になることが1つある。仙台で生まれ育って東北をこよなく愛した菅原さんが、なぜ、福岡の太宰府天満宮に眠ることになったのか。仙台にも大きな大社はあるのにと、気になって調べることにした。
真相は13年前にあった。同じ俳優の道を進んでいた長男の菅原加織さん(享年31)を踏切事故で亡くしたのだ。ショックを受けた菅原さんは「俳優をやめよう」と思ったそうである。もともと神道だった菅原さんは、関西圏にある大きな某大社に、息子さんの葬儀をお願いする。しかし、その大社には受け入れてもらえず、そこで紹介されたのが、太宰府天満宮だったという。学問の神様・菅原道真公を祭っていることも縁だったのだろう。家族葬を行い、その後も10日祭、50日祭、1年祭と、菅原さんは天満宮に眠る長男の墓によく顔を出していたそうだ。
天満宮関係者は「本当によくいらしていました。実際にお会いしたことも、何度もあります。そのとき菅原さんが、『もし自分に何かあったら、こちらでご厄介になりたい』ともおっしゃっていましたね。11月30日に菅原さんの家族葬をし、翌日も翌日祭を行っています」と、教えてくれた。息子さんの墓参りに行くために、福岡・中央区にマンションを借りていた菅原さん。50日祭には、愛した息子・加織さんと同じ墓に眠ることになりそうだ。
石川敏男(いしかわ・としお)
昭和21年11月10日生まれ。東京都出身。『ザ・ワイド』(日本テレビ系)の芸能デスク兼芸能リポーターとして活躍、現在は読売テレビ『す・またん』に出演中。 松竹宣伝部、『女性セブン』(小学館)『週刊女性』(主婦と生活社)の芸能記者から芸能レポーターへと転身。