「渋谷を再びカルチャーの中心に」1980年代から現在へ、“渋谷文化”はもう生まれない?
堀越謙三氏
――ガングロが出てきたとき、渋谷のセゾンカルチャーの影響を受けてきた堀越さんは、どう受け止めましたか?
堀越 「ケッ!」と思っていましたよ(笑)。でも今思うと、ガングロがはやった時代は、まだ渋谷は人が集まって元気がよかったかもしれない。今の渋谷には東急Bunkamuraやパルコ劇場のようなエスタブリッシュされた大人の文化はありますが、カウンターカウルチャーは何があります? まだ原宿の方が再生を繰り返していて元気があります。渋谷駅周辺は開発でファッションビル化して、きれいだけど、同じような店ばっかり。文化的な雰囲気はありません。渋谷センター街も同じです。
――ユーロライブやユーロスペースのある渋谷の円山町は、駅からちょっと離れており、ラブホテル街というイメージが強いですよね。
堀越 一般的にはそうでしょうね(笑)。でも今、円山町は変わりつつあります。ラブホテルとして経営できているところはかなり減ってしまい、代わりにShibuya O-WEST(現TSUTAYA O-WEST)、クラブエイジアなどのライブハウスやクラブができましたし、映画館ではユーロスペーシやシネマヴェーラがあり、ユーロライブという劇場もできた。これからの渋谷文化は、駅周辺でもなく、宮益坂でもなく、円山町から発信できればいいと思っています。パルコ劇場や東急Bunkamuraがブロードウェイなら、円山町はオフブロードウェイ。渋谷の中でもダークで濃い場所。それがいいんです。演劇人やミュージシャンなど若くておもしろい人たちが集まるような場所にしたいですね。
――個性的で濃い場の1つが、ユーロスペースという映画館でもありますよね。ユーロスペースはメジャーな大作映画は上映しないミニシアターですが、オープン当初はどのようなコンセプトだったのですか?
堀越 ユーロスペースのようなマイナーな世界のマーケティングは、敷居を高く、わかりやすくしないことです。最初はちょっと易しそうに見せて、少しずつ敷居を上げていく。そうするとお客さんは本気になって何度も来てくれるのです。最初の頃は、4~5人しか入らない日もありましたからね。内向きだと言われるけど、ミニシアターはそうやっていかないと続かない。ミニシアターはかつて渋谷だけで20スクリーン以上あったけど、今残っているのは半分くらいです。
――一方、ユーロライブは、どのような文化を育てていきたいと考えていますか?
堀越 僕は映画を長年やってきて、そろそろ世代交代しないといけないと思い、最後は好きなことをやろうと、手始めにユーロライブで落語やコントをやることにしたのです。ずっと頭の片隅に、ジァン・ジァンのような場を作りたいという思いもありました。また、ユーロライブという場で、どれだけ今という時代が表現できるか試したい。でも、その“時代”はもう僕じゃわからないから若い人に任せようと思い、落語はサンキュータツオさんにキュレーターになってもらいました。コントは“渋谷コントセンター”と命名して、いとうせいこうさん、大林素子さん、倉本美津留さんにキュレーターをお願いしています。いずれはコント作家も募集するなど考えています。みんなユーロライブから、渋谷から、スターを出そうと張り切っていますよ。
――カルチャーが生まれるには、まずは場が必要ですよね。
堀越 ユーロライブがおもしろそうだと人が集まり、セレクトショップじゃないけど、それぞれのセンスで選んで楽しんでもらえればいいですね。ユーロライブのカラーをつけていきたい。リスペクトされるような人の企画が実現すれば「あの人が出たユーロライブ」と、注目が集まりますから。いろいろアイデアを絞って、仕掛けて、渋谷の街が再びカルチャーの中心になっていくといい。今渋谷に関わっている人は、東急東横線が地下にもぐって、複雑になり、渋谷に人が集まらなくなったことに対して危機感を抱いています。みんな渋谷を素通りして横浜や新宿に行ってしまう。そこを変えていかないと。渋谷はおもしろい、特に円山町はおもしろい! と、盛り上げていきたいですね。
堀越謙三(ほりこし・けんぞう)
1945年生まれ。ミニシアター・ユーロスペース代表。独自の視点で選んだ映画の配給、興行、宣伝、上映のみならず、製作にも積極的に進出し『スモーク』(ウェイン・ワン監督、1995)でベルリン映画祭銀熊賞を受賞。東京藝術大学名誉教授。
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