「一生セックスなしでも3日泣くだけ」官能を描く作家・南綾子、その意外なコンプレックス
――性的な人間ではない……とすると、燕君のような幼くてダメな男を“包んであげたい”という欲望はありますか?
南 それはないです。ダメ男を許容することに、女の器の大きさは感じません。むしろその男を踏み台にする心意気を持ちたいぐらい(笑)。私、長く付き合った年上の男性が躁鬱病だったんです。付き合って3年目くらいまでは、鬱の方がひどかったんですが、どんどん躁状態の時間が増えていき、その状態の彼を受け入れられなくなってしまいました。躁状態の人って、ものすごくテンションが高くて、自分勝手なんですよ。彼が全然私の方を向いていない気がして、「私っていなくてもよくない?」と思い、別れを切り出しました。「どんなダメな彼でも、私は添い遂げる」とは思えませんでしたね。
若い男の子を「愛でたい」という気持ちもなくて、それよりも、若い男の子たちに「愛されたい」。若い男の子って、性欲と感情がごちゃ混ぜになっていますよね。30代の男性って、礼儀として女性に「私は、あなたのことを性的にだけ見ているわけではありませんよ」という態度を取りますけど、ヤリたいというストレートな感情を真正面からぶつけられたら、すごく幸せだろうなと思います。女として。
――南さんご自身は性的な人間ではないけれど、女として性的に見られたいという願望があるのかもしれません。
南 私、「生まれ変わったら、燕君のような何も考えていないチャラい男になりたい」と思うんです。黙っていても、女が寄ってくるというか……。そういう人と付き合いたいというよりも、「そういう男の人になりたいな」という願望が強いかもしれないです。
男の人がいろんな女の人とヤリまくるのって、生物学的に正しい気がします。つまり、そんな「素直に行為を実行できる」人にあこがれるんです。一方で、女の人が経験人数を重ねるのって、私は、「精神的に不安定だからじゃないか」と思ってしまって……。そういう意味でいうと、「大物を一本釣りする」タイプの女性にはあこがれますね。大物一本釣りをするためだけに全精力を捧げて、職業やファッションも何もかも選択する……という。そういう女性って、誰かからツッコミ入れられても、自分を貫く強さがありますよね。私はそうはなれないから、羨ましい。
――そもそも、なぜそういう女性にあこがれを持つようになったのでしょう?
南 県民性ですかね。私、地元が愛知県の名古屋なんです。名古屋人って非常に保守的で、狭いコミュニティの中で、互いを意識し合っているんです。「マンションか戸建か、戸建でも土地から買ったのか建て売りか」なんて比較し合うような県民性がある。ほかにも、「トヨタやデンソーに勤めている人が偉い」という価値観もあったりする。私もそんな県民性に影響されて、非常にコンサバティブな面がありつつ、「でもやっぱり、面白い方がいいじゃん」というリベラルな面も併せ持っているんです。
誰かと付き合うにしても、「親に会わせたらどう思うだろう?」「友達の旦那と比べるとどうだろう?」という保守的な考えにとらわれてしまったり、だからって、条件が良くたって、気持ちが乗らない場合もある。コンサバかリベラルか、0か100か、どちらかに振り切れたら幸せだなと思うんです。私は、いつも客観的に自分を見て、ちまちまとしたことばかり考えてしまうので、本当に嫌なんですよ。
――その客観性こそが、女性読者の気持ちいいところを敏感にキャッチしている気がします。
南 そうですか? 恋愛もセックスも常に客観的に見すぎるというのは、作家としてはいいかなと思いますが、女としてはちょっと……(笑)。「小説を書いて残す」という行為は、やっぱり生物学的に正しくない、ムダなことだなと私は自分に対して思います。私は「もう少し溺れないといけないな」と感じてしまうんですよね(笑)。
(取材・文/いしいのりえ)
南綾子(みなみ・あやこ)
1981年、愛知県名古屋市生まれ。2005年、『夏がおわる』で「第4回女による女のためのR‐18文学賞」大賞を受賞。著書に『わたしの好きなおじさん』(実業之日本社文庫)『夜を駆けるバージン』(光文社文庫)『マサヒコを思い出せない』(幻冬舎文庫)などがある。
『すべてわたしがやりました』(祥伝社)
窃盗、殺人、薬物……絶望しながら貪欲に生きる、女性犯罪者を主人公にした短編小説集。南さん自身が「書いていてつらかった」というほど、泥沼に陥った女たちの姿が描かれている。「南綾子の真骨頂」と話題になっている1冊。