妻までダシに使われ……東西抗争に翻弄された男、ノトーリアス・B.I.G.
95年10月、ビギーはジュニア・マフィアとツアーへ繰り出し、フェイスは仕事のためロサンゼルスへ。クラブを訪れたフェイスは、「2パックもいるよ。会いたいって」と言われ、仲のよかった2パックと夫との抗争を和らげるきっかけになればと了承。2パックはフェイスに「オレの曲に参加してくれ」と依頼し、彼女はこれにも応じた。レコーディングはスムーズに行われたのだが、直後、2パックは取材に対して、フェイスと一発ヤッたとニヤニヤ明かし、「オマエの奥さんとファックしたぜ」とビギーを侮辱するシングル「Hit ‘Em Up」もリリースした。
大手メディアは2人の対立と、東海岸vs西海岸の抗争を大々的に報じるようになり、誰もがビギーの反撃を期待した。しかし、ビギーは2パックや西海岸をディスる曲を作ることを拒否。96年3月に開催されたアワードのバックステージで2パックと対面したときも、ビギーは落ち着いた口調で「おい、一体なんなんだ? 何が問題なんだ?」と聞いた。2パックも落ち着いた口調で、「レコードを売ってるだけだよ。1枚でも多く売ろうとしているだけだ」と回答。ビギーは、東海岸vs西海岸の抗争は、売り上げを伸ばすために演じているだけなのだと受け止め、引き続き放置しておくことに決めたという。
ところが、96年9月7日に2パックがラスベガスで襲撃されて6日後に死亡すると、ビギーはこの事態を無視できなくなる。次は自分が殺されるんじゃないかと、恐怖心にさいなまれるように。しかし、ビギーは短期間復縁していたフェイスが長男クリストファーを出産したこともあり、将来に目を向けることを決意。セカンドアルバムのレコーディングも行い、東海岸と西海岸の抗争は2パックの不幸な死により終わったものと受け止められるようになった。
97年、ビギーはセカンドアルバムのプロモーションのため、敵地だといわれていたロサンゼルスを訪問。西海岸はビギーが思っていた以上に温かく彼を受け入れ、3月8日の夜に開催されたパーティーで、ビギーは中心人物となるほど盛り上がりを見せた。この状況にビギーも気をよくしており、8曲もラップするなどサービス。夜中12時半、ビギーらは車に乗り込み、超満員だったパーティー会場を後にした。会場近くの信号で赤になったため車は停止したのだが、次の瞬間、彼らの車の横に黒塗りの車が停車し、運転席にいた男が銃を発砲。ビギーは胸に銃弾を4発受け、動かなくなった。病院に運ばれたものの意識を取り戻すことはなく、9日早朝1時15分、24歳の若さで他界した。2パック同様、ビギーを殺した犯人も捕まっていないが、シュグが絡んでいるという説が根強い。が、真相は闇の中である。
ビギーの死から16日後の3月25日、ビギーのセカンドアルバム『ライフ・アフター・デス』が発売された。「死後の世界」というタイトルのため、まるでビギーが殺されるのを知っていたかのようだと話題になった。アルバムは飛ぶように売れ、最終的には1,000万枚以上の売り上げを誇っており、強烈なインパクトを音楽界に残したのである。
今年5月30日、フェイスがビギーの息子クリストファーの高校卒業式の写真をインスタグラムに掲載した。自伝映画『ノトーリアス・B.I.G.』で子どもの頃のビギーを演じたクリストファーは、ラップに興味はあるものの、「まずは大学に進学して、映画制作を学びたいんだ」と発言。偉大なる父の名に押しつぶされることなく、立派に成長している。
死後17年がたった今なお、現役のラッパーのように大きな存在感のあるビギー。彼をリスペクトするラッパーは数多く存在し、エミネムは、2パックとビギーのラップを合わせた「Runnin」という曲をプロデュースし、かなりのヒットとなった。プロのラッパーとして活動していた期間は短く、作品もそれほど多くないが、ヒップホップ界に多大なる影響を与えた彼の名と伝説は、これからも語り継がれていくことだろう。