妻までダシに使われ……東西抗争に翻弄された男、ノトーリアス・B.I.G.
94年9月、ファーストアルバム『Ready to Die』が発売。ビギーが書いたハードコアなストリートライフのライムを、ショーンが幅広い層に受け入れやすいサウンドに乗せ、同アルバムは大ヒット。ビギーは自分のことを「デブでブサイクで肌も真っ黒」だと卑下しつつ、だからクールだとアピールした。実際に、ビギーのチャーミングな性格は大勢の人を引き寄せる力があった。巨漢でお世辞にもイケメンとはいえない外見のビギーにスーツを着せ、女性にモテモテというイメージを定着させたのはショーンのアイデアである。ビギーは「パパみたい」と女性に好かれ、ライブには女性ファンが殺到。もちろん男性ファンも多く、彼のライブは大繁盛だった。
また、ビギーは、ベッドフォード・スタイベサント地区の若手ラッパーたちを集めて結成させた「ジュニア・マフィア」がメジャーデビューする手助けもし、プロデューサーとしての腕も認められるように。こうしてビギーは瞬く間に時代の寵児となったのだ。
94年11月30日。ビギーは、ショーンと共に、ニューヨークのタイムズスクエアにあるスタジオでジュニア・マフィアのアルバムのレコーディングをしていた。同日同時間帯、彼らの下の階のスタジオでは、2パックがレコーディングに参加していた。2パックはビギーたちより早く仕事を終えてスタジオを後にしたのだが、建物を出た途端、2人の男から拳銃を発砲され、400万円相当の貴金属を奪われるという事件に巻き込まれてしまった。2パックは5発もの銃弾を浴び、救急車で病院に搬送。救急車に乗せられる直前、事件を知りレコーディングを切り上げたビギーたちが建物から出てくるのを目にし、「こいつらが仕組んだに違いない」と思い込むように。
95年4月、2パックは米老舗ヒップホップ専門誌「VIBE」のインタビューで、ビギーとショーンは自分が撃たれるのを知っていた、彼らが自分を殺そうとしたのだと断言。95年2月にビギーが、「Who Shot Ya?」(誰がオマエを撃ったんだ?)というタイトルのシングルをリリースしたのも、自分へのメッセージだと受け止めてしまった。「ビギーに恩を仇で返された」と激怒し、事件は2人が仕組んだ陰謀だと主張したのだ。
ショーンに敵対心を抱いていたロサンゼルスの「デス・ロウ・レコード」の創設者シュグ・ナイトは、この騒動を利用して、2パックの活動拠点である西海岸と、ビギーとショーンがいる東海岸の「抗争」というイメージを世間に刷り込むことを企てる。そして95年8月に受賞式のスピーチで、シュグがショーンを皮肉り、ビギーが対抗。会場が盛り上がると、スヌープ・ドッグは、「東海岸は西海岸のオレらのことをクソだと思ってんだろ!」とかみつき、東海岸vs西海岸のテンションがマックスに。9月にショーンとシュグのアントラージュ(取り巻き)が口論となり、シュグのボディガード兼親友が銃殺される事件が発生。シュグはショーンが裏で企てたと激怒し、抗争はヒートアップしていく。10月に2パックがデス・ロウ・レコードと契約すると、東海岸代表のビギーVS西海岸代表の2パックという形が確立されていった。
[成功への道]
デス・ロウ・レコード入りした2パックは、「大金を稼ぐまで、ビギーの周りに女なんて寄ってこなかった。オレがそのことを証明してやるよ」と宣言。ビギーは歌手のフェイス・エヴァンスと94年8月に結婚していたのだが、多忙で一緒に過ごす時間が少なく、夫婦関係が悪化。ビギーは「ジュニア・マフィア」のリル・キムや、ラッパーとして育て上げたチャーリー・バルティモアと浮気しており、離婚に向けた話し合いまでしていた。