“世間”に嫌われると有罪——『リーガルハイ』が暴く、ソーシャル時代の“世間”の怪物性
一話完結でさまざまな裁判を見せていく本作では、最終的な裁判の勝ち負けとは別に、古美門サイドの解決方法と羽生サイドの解決方法が提示される。両者の正反対のスタンスを見せることで、どちらが正しいのかと、視聴者は毎回考えさせられることになる。この対立構造が明確なため、第一期の魅力だった古美門という得体の知れない怪物が周囲を翻弄していく暴力的な迫力は若干後退したが、テーマの掘り下げや構成の巧さは、より進化したと言えるだろう。
中でも興味深かったのは黛の変化だ。「真実などどうでもいい」と語り、勝つために手段を選ばない古美門に対して、真実を追求し事件の真相を明らかにすることが第一だと考える黛は、古美門の弁護士仲間であると同時に思想的には対立関係にある。しかし本作では、今まで黛が抱えていた理想主義者としての役割を羽生が担うこととなったため、黛は古美門と羽生の間で揺れ動くことになる。
第5話では、社員が生み出したマスコット・キャラクター「おやじいぬ」のライセンスを巡って、AJISAIカンパニーとライセンスの権利を主張する社員の裁判が繰り広げられる。社員を家族のように扱う日本型経営を行うことで、権利の所在を曖昧にしてきたAJISAIカンパニーに対し、黛は引導を渡す。
「終身雇用、年功序列、愛社精神、会社は家族。それらは全て過去の幻想です」
「分かち合う社会は素晴らしいでしょう。しかし、自分の権利を主張し、嫌われようと憎まれようと戦って勝ち取る。そういう人も讃えられるべきです。時代は決して後戻りしません。変わらないものは滅びるのです」
「ただ、喜びも苦しみも分かち合い、がむしゃらに働き、この国を発展させ、家族を養ってきた全ての会社と働いてきた人々には心からありがとうと言いたいです」
これ以降、黛は古美門の持つ狡猾さを身につけた上で、真実を追求する弁護士へと変わっていく。また、この台詞を書いた脚本家・古沢が、昭和30年代の東京を描いた映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の脚本を担当していたことを考えると、実に意味が重い。
シリーズ第二期は、古美門が一枚上手だったという結末で終わったが、もし第三期があれば、古美門の弁護士としての手腕を吸収しつつある黛が、古美門を倒す存在へと変わっていくのかどうかを見せるのだろうか。
(成馬零一)