“見世物”女優・沢尻エリカの悲劇、ヒューマンドラマ『時計屋の娘』の違和感
ある町で時計店を営む時計職人の秋山守一(國村隼)の元に、若い女がビンテージものの腕時計の修理を頼みにやって来る。宮原リョウ(沢尻エリカ)と名乗った彼女は、かつて秋山の恋人だった国木知花子(木村文乃)の娘だった。リョウは秋山に尋ねる。「あなたは私の父親じゃないですか?」――。
沢尻エリカ主演の2時間ドラマ『時計屋の娘』(TBS系)は、時代に取り残されつつある老いた時計職人が、かつて愛した女性との思い出を振り返ることで、生きる意思を取り戻していくヒューマンドラマだ。プロデューサーは八木康夫、脚本は映画『復讐するは我にあり』や『楢山節考』の脚本で知られる池端俊策。2人は1年前(2012年)に沢尻エリカ主演で2時間ドラマ『悪女について』(TBS系)を制作し、平成24年度の芸術選奨文部科学大臣賞(放送部門)を受賞している。前作の成功を引き継ぐ形で作られた本作もまた、平成25年度文化庁芸術祭参加作品となっている。
本作は、池端が08年に脚本を執筆し、平成20年度文化庁芸術祭テレビドラマ部門で優秀賞を受賞した『帽子』(NHK)を彷彿とさせる。『帽子』は、時代に取り残されつつある帽子職人の高山春平(緒形拳)が、若い頃に好きだった世津(田中裕子)に会いに行くことで、迷いを吹っ切り、生きる意思を取り戻す話だ。春平と一緒に世津に会いに行くのが、春平と仲良くなった警備会社に勤める青年・河原吾朗(玉山鉄二)なのだが、『時計屋の娘』では植木職人の花村司(桐谷健太)が同じ役割を果たしている。
そして、『帽子』では物語の背景に(舞台が広島のため)被爆という大きなテーマがあるが、『時計屋の娘』の背景にあるのは、東日本大震災だ。宮原リョウは石巻出身で、家は津波で流されてしまった。彼女が持ってきた時計は、唯一、家の跡地から見つけた母の形見で、止まっていた時計を、かつて母の恋人だった男の元に届けることで、お互いに止まっていた時間が動き出すという構成になっている。震災というテーマの描き方といい、隙のないうまい脚本だったと言えよう。
しかし、うまい脚本が必ずしも意図通りに仕上がるとは限らない。それが実写映像の難しさであり面白さだ。結局、『時計屋の娘』は、構成がうまいと感心しながらも最後まで話に集中できなかった。理由はもちろん沢尻エリカだ。
本作で沢尻が演じるのは、年相応の普通の女性だが、それが見事に違和感の塊なのだ。そのため、時計屋に来た時点から何かを企んでいるんじゃないか? と、こちらが邪推したり、リョウが借金を抱えていることがわかり、ヤクザに捕まって恫喝される場面が描かれても、「沢尻なら、こんな奴らすぐにぶん殴って、逆に舎弟にするだろ」と、余計なことを考えてしまう。つまり、視聴者側にある、沢尻エリカにまつわる虚実入り混じった膨大な情報が邪魔をして、ドラマを楽しめないのだ。沢尻自身は、年相応の女性の演技を自然体で演じようとしているのだが、それが一番不自然に映ってしまう。若手女優の木村文乃が違和感なくドラマの枠組に収まっているのとは正反対だ。
同スタッフによる『悪女について』の富小路公子や、映画『ヘルタースケルター』のりりこのようなモンスターガールは、沢尻エリカのパブリックイメージと連動しているため、うまくハマっていた。
しかし、それは面白い見世物として消費されるのと同じことだ。おそらく『悪女について』を作ったスタッフたちは、(沢尻を見世物扱いしてしまった良心の呵責もあって)今度は普通の女性としての沢尻を撮りたいという思いがあったのだろう。沢尻としても、本作を契機にテレビドラマの世界に復帰していこうと考えていたのかもしれない。
しかし、本作は今の沢尻が普通の役を演じるということが、いかに困難かということを逆説的に証明してしまったように見える。ドラマを見ていて印象に残るのは、妙に貫禄のある沢尻の姿で、「こんな27歳いねぇよ」という違和感だ。
かつてなら、沢尻エリカのような女優が生きられた場所こそが、映画やテレビドラマという芸能の世界だったはずだが、銀幕のスターがかつて持っていた存在感は、現在ではキッチュな偽物としてしか成立しなくなっている。そのため、女優の世界を本気で生きている沢尻エリカを、面白い見世物として茶化すことでしか生かすことができないのだ。
特にテレビドラマは家庭、学校、職場といった日常をベースにした物語が多いため、尚更沢尻の居場所がないように感じる。彼女が主婦やOLの役を演じる姿は、とてもじゃないが想像できない。
演じる役よりも本人の存在の方が面白くなってしまった悲劇(あるいは喜劇)を現在の沢尻エリカは生きている。もしも、彼女の個性をテレビドラマで生かせる場所があるとすれば、昼ドラだけではないだろうか。
(成馬零一)