真のヤリマンこそ純潔である――『聖娼の島』が投げかけるセックスの意味
■今回の官能小説
『聖娼の島』(うかみ綾乃、廣済堂文庫)
学生の頃、また社会人になっても、ふと気付くと、コミュニティ内に“ヤリマン”のうわさが立っている……そんな経験はないだろうか? 例えば、同じ学校の生徒とはもちろん、他校の生徒ともヤリまくっているうわさがある学区内のヤリマン女生徒や、「他部署の派遣社員が実は」「同業者内で名前をよく聞くあの子」など、あらゆるコミュニティで、ヤリマンの存在はまるで都市伝説のように広まる。
そんなうわさが立つたびに、ヤリマンといわれる女性は、学校なり地域なり会社なりの自分が生きる“村社会”の中で、セックスを利用して自己顕示をしたいのではと思わずにはいられないが、けれどもその中に、一握りの真のヤリマンが存在する。何をもって“真の”ヤリマンとするか。それは、セックスに何の対価も求めないでいられるか否かではないだろうか。そんなことを思わせたのが、今回ご紹介する『聖娼の島』(廣済堂文庫)である。
本作は、四国にある小さな島が舞台の物語だ。長年勤めていた東京のホテルを離れた健吾は、元部下の香奈絵から、実家の旅館がある島へ来ないかと誘われる。人口2,000人程度の狭い島にある瀟洒な「貴船旅館」は、代々続く由緒正しき旅館。そんな名家の娘である香奈絵から突然告白された健吾は、婚約者として島に迎えられることになる。
しかし健吾は島で、ある1人の女性と出会ってしまう。長い黒髪と白い肌。まるで人形のように美しいその女性は、剛健な男性になされるがままになっていた。胸を揉みしだかれ、乳房を露にされ、乳首に吸い付かれても、拒否することなくただ男の愛撫を受け入れる。彼女は祥子という、島の神社の巫女であった。
しばらく島に滞在することになった健吾は、島の住人たちの祥子に対しての態度に不信感を抱く。女たちは祥子の名を聞くだけで顔をしかめ、男たちは奉納の舞を踊る彼女を讃えつつも、どこか侮蔑しているようにも感じられた。
その理由はすぐに判明した。ある日、香奈絵の旅館で働く鶴代ともに出掛けた健吾が、祥子に出くわした時、混乱に陥る鶴代を目の当たりにする。鶴代にはかつて、同じく貴船旅館で料理人をしている夫がいたが、彼は祥子に夢中になり、毎晩のように祥子のもとに入り浸るように。そのうち祥子に捨てられた彼は、自棄になって神社に火を点けてしまったという。「誰とでも寝る女なのよ」と鶴代は語る。事実、祥子は香奈絵の父親とも、香奈絵の兄とも関係していた。
神社に産まれた女は巫女になる。彼女の母は19歳の時に祥子を産み、祥子は10歳になった時に、男たちの供物となるという母の役割を受け継いでいたのである。
祥子にとって男の欲望を受け止めることは、生まれた時からの役割だったが、たくさんの男性と関係を持つ女は、確かに汚れている、哀れだと見られがちだ。しかし見方を変えると、何の見返りを求めず、影で自分を侮蔑するような男のことも受け入れ、誰のものにもならずに万人に抱かれる祥子は、巫女であることも相成り、誰よりも清らかな存在にも映る。
多くの女性が、セックスの向こう側に何かを求める。恋人になるためだったり、愛情を確かめるためだったり。一夜限りの場合だったら、淋しさを紛らわせるためだったり。セックスを介して自分がモテていることを実感し、優越感を得たいがための手段としてセックスを用いていることだってある。祥子のある意味での純潔さは、見返りを求めてばかりいる自分自身に、セックスの意味を問いかけてくるのだ。
中には、祥子に憧れを抱いてしまう女性もいるかもしれない。しかし、祥子のバックボーンに母とその“血”があったように、祥子のように男たちの膿を一身で引き受ける存在には、なろうと思ってなり得るものではない。そんな祥子の聖娼としての生き様に畏怖しながら、本当は彼女も1人の愛する男に抱かれたいのではないかと思ってしまうのは、祥子にはなれない筆者の生温い願望なのだろうか。
(いしいのりえ)