瀧波ユカリ『女もたけなわ』に潜む、女を不自由にする「オヤジ的価値観」の正体
本書は「たけなわロードを走っている女性」に向けたエッセイ集でありながら、これらの章では、「若い女/若くない女」、あるいは「既婚の女/未婚の女」というような、巷で語り尽くされた、ありがちな「女同士の対立」が強調されているといえます。これらの章における「女の敵は女」という構造は、ニッポンの保守派オヤジ達を「いやあ、やっぱり女はこわいねえ」とニヤニヤ喜ばせるための恰好のゴシップ、という印象がぬぐえませんでした。
瀧波氏は、そんな「女は若い方がいい」「女は結婚・出産した方が幸せ」、あるいは「年配の女は若い女を(未婚者は既婚者を)妬むもの」というような保守派オヤジ的な価値観から、自由になれていないのでは……? と思えるのです。
さまざまな事象にツッコミを入れて、世にはびこる常識を解体していく「江古田ちゃん」ファンだった筆者としては、「女同士の対立」を強調し、年配女性や未婚女性にマイナスの印象を抱かせるようなその語り口に、やや寂しさを覚えました。
それでも、本書を読み込んでいくと、瀧波氏は、自分と違う生き方をする女性を必ずしも対立する存在(敵)と捉えているわけではないし、「女はこんな醜い生き物ですよ」と第三者的立ち位置から批評したいわけでもないのかも……とも思えてきます。筆者がそのことを強く感じたのは、女同士の居酒屋トークについて書いた章「女の会話」の次のような一節です。
「余計な作法を排した結果、言葉に詰まるようじゃ友情も終わり、かもしれない。でもそこから始まる何かもきっとある。今は『いいな~』を連発したり、『○○ちゃんって今は』って話題をふったりしないで会話ができるよう、イメトレに励んでいるところだ。壁ぶっ壊せるように、がんばる。」
女性同士の会話には、確かにお互いが必ず共感・共有できるような無難な話題を良しとする「テクニカルな作法」があります。それゆえに友人同士で会っていても、腹を割って話すことができず、うわべだけの羨望や自虐、共通の友人の近況報告に終始しがちで、相手への否定的意見を胸中に押し込めてしまったり、その場にいない誰かを悪く言うことで、つい盛り上がってしまったり……という現象が起こるのです。
ところが、そういった「作法」を守る会話に終始するからこそ、「女同士の会話はうわべだけだし、他人の悪口ばかり言って陰湿」というイメージが強固なものとなり、対立構造がより強く世間に印象付けられてしまうのだとも考えられます。
「壁ぶっ壊せるように、がんばる」という強い決意表明で幕を閉じるこの章を読むと、瀧波氏が言う「壁」とはなんだろうと、ふと考えさせられます。一見、女同士の友情の間に立ちはだかる障壁を指すようにも思えるのですが、瀧波氏の「オヤジ的価値観」を考察するうち、それだけではないと感じるようになりました。