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自殺者まで出た異様なミスコンブーム――「美人」が戦後日本にもたらした光と影

2013/07/20 18:00
Photo by Daisuke Matsumura from Flickr

■ミスコンがもたらした、戦後日本の自信回復

 終戦から10年経った昭和31年、目覚しい復興が進んでいた。この年の7月に発行された『経済白書』は、「すでに戦後ではない」と宣言した。経済復興と精神的な開放感から、戦争中は押さえつけられていたものが形になって現れていった。その1つと考えられるものが、ミス・コンテストの全国的なブームである。

 ブームのきっかけは昭和28年、世界的なミス・コンテストである『ミス・ユニバース世界大会』で、ファッションモデルの伊東絹子さんが第3位に入賞したことであった。この時、伊東さんは身長が164センチと当時の日本人女性としてはやや長身で、B86センチ、W56センチ、H92センチというなかなかのプロポーションに加え、八頭身というバランスの取れたスタイルだったことが注目された。

 当時の日本人は六頭身が多く、美人といえば容貌のよさを指すものであったが、伊東さんの入賞がきっかけにとなり、美人の条件に「全身のスタイルやプロポーション」も加わったのだ。そして、「八頭身美人」は流行語となり、「これを通り抜けられたら美人の証明」などと書いた、伊東さんの等身大切抜き看板を立てる映画館が登場した。こうした状況に刺激され、「美人を探せ」「アナタも美人だ」とばかりに、美人をテーマにしたイベントが次々に企画されるようになったのである。

 この爆発的なブームは、戦後、日本全体が自信を失っていたことに起因している。それまで日本人は、「強く正しく美しい」と教えられてきたものが、戦争に負けたことですっかり自信を失い、女性もまた長身でグラマーな欧米の美女を眺めては、ため息をついていたであろうことは容易に想像がつく。そんな中、経済復興のさなかに、日本人女性が世界の舞台で認められたということは、女性だけでなく男性にとっても、大きな心のよりどころとなったであろう。

 ミスコンブームはその後、怒涛の広がりを見せる。昭和25年にスタートした『ミス日本』の注目度が増したことは言うまでもなく、ほかにも『ミス福島』といった地元限定の地方版ミスコンや観光地ミスコン、そのほかに商品や特産品などを冠したミスコンが続々と登場した。

 終戦から昭和31年までの10年間で、全国各地で選ばれた「ミス●●」は、5万人以上と言われている。自治体や商店街などが主催するような小さなイベントまで入れたら、その数はさらに膨れ上がるだろう。

 そんな女性の憧れであった「ミス」だが、選ばれた女性にはどんな恩恵があったのか。中には、司葉子や山本富士子のように芸能人として活躍するようになる女性もいたが、そういうケースはごく稀であった。当時の資料を調べてみても、「ミス」に高額の賞金がもらえたとか、高い社会的な地位を得たという情報はない。せいぜい記念品程度の商品と、その地域でのささやかな知名度を手にした程度であろう。実際、ミスに選ばれた女性が、数年後には場末のスナックで働いていたという例は少なくない。それでも、「ミス」に選ばれることの満足感や達成感は、戦争によって財産も自信も失った日本人女性にとって、大変価値あるものとしてとらえられたことと考えられる。

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