恩赦された女死刑囚の数奇な軌跡――貧困と抑圧された2つの家族に生きた女
■法廷でも隠され続けたもうひとつの家族
事件以前から金城義男(仮名)は、私生児であり夫にも恵まれない山本宏子を不憫に思い、親身に相談に乗るだけでなく、時には金を貸していた。だが、そんな義男も結核を患うようになり、家の1階で寝たり起きたりの生活を送るようになっていた。一方、妻の菊代(仮名)は気性が荒く周囲からも“鬼婆”といわれる女性であり、病床にある夫に対してつらく当たったという。夫から結核を移されることを恐れ、2階で家庭内別居という生活だった。宏子は、そんな菊代に憤りの感情を持ち、菊代に代わり義男の世話をなにくれと焼いていたという。
だが、ここに至るまでにはもう1つの事情があった。というのも、宏子は義男を実の父親ではないかと密かに思っていたフシがあるのだ。その根拠はつまびらかではないが、しかし義男もまた、宏子の疑問を肯定するような態度を示していたらしい。また事件の2日前、義男は菊代との諍いが元で自殺未遂を図っていた。このような状況下、実の父ではと思っている義男に当たる菊代に対し、宏子が憤りの感情を芽生えさせていたとしても不思議ではない。
だが法廷ではこうした事情が明らかになることはなかったという。これらの事情は情状と捉えられ被告人に有利になるのか、または怨恨であり計画的だと不利に働くのか微妙なところでもあったのだろう。このように事件の背景には、戦後の貧しさ、狭い村社会での複雑な人間関係なども存在していた。宏子を庇った義男だったが事件の3日後、心労も加わったのか病気が悪化して死亡した。
死刑確定から3年ほどたった昭和29年頃から、宏子の言動が次第におかしくなっていった。模範囚だった宏子だが、弁護士との会話が成り立たない。裸で水を浴びたり、「電気が飛んでくる」など意味不明な言葉を呟く。これまででは考えられない奇妙な俳句を詠むようにもなった。5年以上にも及ぶ拘禁の影響、死刑への恐怖などによる拘禁性精神病だった。憑かれたように関係各所に助命嘆願書などを書く宏子。それは検察幹部だけではなく、「原爆の父」として知られるロバート・オッペンハイマー博士宛のものもあったという。
宏子の異常行動はマスコミでも報道され世に知られるようになった。このような異常な状態では刑を執行することも不可能だ。犯行には同情すべき点が多く、反省の情も強い。そして精神的疾患も患っている。さらに体力も衰え結核にもなっていた。宏子の助命嘆願運動は“恩赦”を求める動きとなっていく。