女たちの“不安”という小さな芽を共有し、「婦人公論」は今日も進む!
「あなたはママの作品なのよ」という母親の過干渉に悩まされてきたという小島、厳し過ぎる父親に支配されると同時に経済的には依存されていた中島、慰めて欲しい時も「パパの方がもっとひどいことがあった」とひたすら叱咤激励されていた高橋。3人とも優秀でしっかり者、親の束縛に疑問を抱きつつも「自分さえ我慢していれば……」と感情を押し殺し、家庭内の調整役を果たしてきたことがインタビューからも垣間見えます。小島は最終的に「親子であることを諦める」という視点のパラダイムシフトで自分を納得させ、新しい親子関係に踏み出したようです。ラジオパーソナリティやエッセイストとして成功し、この3人の中で一番「(毒親を)乗り越えた感」がある小島ですが、実際はその仕事のモチベーションも「私はママじゃない、ママとは違うと、ただ母にびっくりしてもらいたかった」という感情からきているといいますから、それだけ親からの呪縛から逃れるのは難しいということでしょう。中島のインタビューにもまだまだ不発弾を抱えているような危うさを感じますし、自分のことを「夜通し回し車を回すネガティブなハムスター」と表現する高橋にはもっと深い闇があるように思います。
「婦人公論」読者は「親であり娘でもある」世代。いわば自分の中に被害者と加害者の両方を背負っている。それだけに「婦人公論」で毒親を扱うことは救済でもあり、断罪でもあると思います。自分が親になってびっくりするのは、眠っていたエゴがムクムクと顔をもたげるんですよね。とてもじゃないけどフラットな状態で子育てなんかできません。「良かれと思って」自分の趣味を押し付け、「良かれと思って」勉強を強要し、「良かれと思って」思想を誘導し、いつの間にか自分好みの子どもにしようとしているのです。すべての親は毒を自分の子どもに注入しているんだと、時々気づいて恐ろしくなります。ただその事実が自分の親を「許す」きっかけになることもある。されて嫌だったことを、自分もしてるじゃないかと。一番怖いのは「私は違う」「私は関係ない」と思うことなのでしょう。女たちが「不安」を共有することで関係をドライブさせてきたように、「自分もいつか毒親になるかもしれない」という不安を共有しながら、そうじゃない未来を夢見ていたいと願ってやみません。
(西澤千央)