セルアウト型の音楽を足がかりに、“ビジネスマン”として成功したショーン・コムズ
――アメリカにおけるHIPHOP、特にギャングスタ・ラップは音楽という表現行為だけではなく、出自や格差を乗り越え成功を手に入れるための“ツール”という側面もある。彼らは何と闘い、何を手に入れたのか。闘いの歴史を振り返る!
【今回のレジェンド】
プロデューサーを足がかりに、幅広いビジネスで成功した
ショーン・コムズ
[生い立ち]
「パフ・ダディ」「P.ディディ」「ディディ」のステージネームを持つショーン・コムズは、1969年11月4日、ニューヨーク州ハーレムに生まれた。父親は、映画『アメリカン・ギャングスター』(2007)で主人公として描かれた国際ヘロイン密売人フランク・ルーカスと交流のある麻薬売人で、ショーンが2歳の時にセントラル・パークで射殺された。元モデルの母親は仕事を3つ、祖母は2つ掛け持ちし、ショーンを育てた。12歳で母と共に郊外に移り住んでからは、新聞配達のアルバイトを始め、業者と提携を結ぶなどうまく交渉を重ねた結果、13歳で週に600ドル(約6万円)を稼ぐまでになった。
引っ越してからも、ハーレムの祖母を頻繁に訪ねたショーンは、「友達と遊ぶより、1人でヤンキー・スタジアムの歓声を聞くのが好きだった。自分も歓声を浴びるような人間になりたいと妄想ばかりしていた」とのこと。そんな彼が、音楽に目覚めたのは17歳の時。クリスマスにジェームズ・ブラウンのレコードをプレゼントされ、「歌だけでなく、叫んだり、ライムしたり踊りまくるのも音楽なんだ」と衝撃を受けたのがきっかけだった。ダンスにハマり、通いつめたクラブで歌手のPVにエキストラ・ダンサーとしてスカウトされ、そこで音楽制作の裏方の仕事に魅力を感じるようになったという。
全米屈指の名門黒人大学であるハワード大学で経営学を専攻したショーンは、ダンスパーティーを企画し1,000人を超える人を集めたり、空港のシャトルサービスを運営するなど、早くもビジネスマンとしての才覚を表した。しかし、音楽業界で働きたいという思いは膨らむばかりで、黒人音楽だけでなく黒人のカルチャーを売りにしているアップタウン・レコードに強く惹かれるように。卒業まで待てなかったショーンは19歳のとき、友人のヘヴィ・Dを通して、アップタウン・レコードCEOのアンドレ・ハレルにアプローチをかけ、音楽界で活動を始めるようになった。
[キャリア初期]
アンドレに「洗車でもお茶くみでも、なんでもする」と頼み、アップタウンの研修生になったショーンは、さまざまなことに挑戦。生まれて初めてプロデュースしたレコードは、なんと200万枚も売れる大ヒットとなった。「たまたまプロデューサーがブッチしたから、『じゃ、オレが』とプロデュースしたんだ。自分の才能は神からの贈り物に違いないと震えたね。楽器も弾けず、音楽プロダクションについて学んだこともないのに、サウンドやアーティストへの指示の出し方とかがドンピシャでわかるんだ」とショーンは手応えを感じたことを回想している。