「結婚したい女は“イタい”のか?」を問う、綿矢りさ『しょうがの味は熱い』
同棲している恋人と、いずれは結婚へ。愛し合っている2人の未来を思い描くことは、そして同じ未来を思い描くことを恋人に求めるのは、おかしなことなのだろうか――?
綿矢りさ『しょうがの味は熱い』(文藝春秋)は、20代の同棲カップルを通して、「結婚」という言葉の重圧や、結婚に至るまでのあらゆる困難を描いた小説です。表題作「しょうがの味は熱い」では、仕事に嫌気を感じながらもサラリーマンを続けている田畑絃と、恋人である絃の家に転がり込んだフリーター・小林奈世のありふれた一夜が、2人の視点で交互に語られます。
セックスの後に背中を向ける絃に、溜息を漏らす奈世。何を考えているかと問われた奈世は、「結婚」という言葉を口にすることができずに、「私たちこれからどうするの」「私は絃とずっと一緒に生きていきたい」と遠回しに自分の思いを伝えます。
「『君は自分の力で君の居場所を見つけなきゃ』
『ここだよ。私、絃の隣のここに、自分の居場所を見つけたい』
『居るだけじゃだめだ、居るだけだからそんな風に思いつめる。常に何かして、一つのことについて深く考えすぎないようにした方がいい。なにか生きがいを見つけなきゃ』
『絃が生きがいだよ』
彼は少しも喜ばず目を見張り、怯んだ顔つきになった。」
このやりとりを見ると、奈世は絃にべったり依存して、我を忘れているように思えます。
奈世の暴走は、とどまるところを知りません。表題作の続編「自然に、とてもスムーズに」では、2人の同棲生活も3年目を迎え、絃のためにアルバイトも辞めて家に籠る奈世の思いは、さらにヒートアップしていきます。
「お皿洗いは数ある家事のなかでも好きな工程で、けっして苦ではないけれど、私自身の革命のためにあえて食器洗い機を買う。私は迷信にも似た古い慣習にはとらわれず、めんどくさがりやとみなされるのを恐れず、機械で食器を洗う妻になるのです。
でも。
私、いつ、だれの妻になるんだっけ。」
食器を洗うという家事ひとつで、誇らしげに「革命」や「妻」を語るその姿からは、同棲初期の不安定で依存的な様子は少しも見受けられません。絃との間に、結婚話は一切出ていないのに、「妻になるのです」と断言してしまえる思い込みの激しさと、にもかかわらず「だれの妻になるんだっけ」と自分を見失っている危うさが、奈世の中で共存しているのです。