カルチャー
慶應義塾大学・ヒサヨ先生の「あの頃の少女たちへ」第6回

暴走族でも不良でもなかった人が、『ホットロード』を懐かしんでしまう理由

2013/04/04 21:00

 同年代の方には、同じような経験をした方も少なからずいるのではないでしょうか。今ではギャグとなってしまった80年代における「ツッパリ」とは、「世間でよしとされるレールから外れても、自分の生き方や信念をまげねーぜ」という「マジ」な生き方として、当時の中学生の目に映っていました。

 ただ、中学生のすべてが、『ホットロード』的な世界に憧れていたかというと、違うと思います。「優等生」でもなければ「不良」でもなかった私は、教師や大人への反感とかは人一倍持っていましたが、大量の生徒の中に完全に埋没していたと思います。そんな中で、「不良」とか「ツッパリ」と呼ばれる人たちを、どこか冷めた目で見ていました。なんでそんなにアツくなってんの? と。 それは多分、私が世間が敷いたレールから外れることに、かなりの不安を持っていたことの裏返しでもあったのでしょう。

 さらに、そのアツくてマジな生き方というのは、ある意味で「真摯さ」を描くことでもあるので、一見『ホットロード』は暴走族とかツッパリとかを礼賛しているようにも見え、「そういうのがちょっと……」という思いもありました。けれども今読み返してみると、その真摯さは頑なさを脱ぎ捨て、自分が変わっていく勇気へとつながっているのかなと感じました。

 もう40歳も過ぎてから読むと、登場する親とか先生に自己投影をしてしまうわけですが、その時の和希の頑なさは読んでいてつらいほど(あと母親のふがいなさにもイライラします)。そんな中で、最後に母親に「たす…けて…」という和希を見た時、なにかがストンと落ちたような、そんな感覚に襲われました。

 『ホットロード』は、和希がたった一言、「たすけて」と言えるまでの長い長い物語だと思うのです。ほかの人に頼ること、それは自分の弱さも受け入れて生きていくこと、誰かほかの人を受け入れて生きていくことにつながっています。

 読み終わって「私もこうありたかった」「こう言いたかった」とか、そんな思いが溢れてきました。おそらく、かつて暴走族でも不良でもなかった多くの読者にとって、『ホットロード』を読み直すことは、ありもしなかった過去を思い返すことであり、 同時に今の自分は誰かにきちんと「たすけて」と言えるのか、誰かに自分を預けられるのか、そして誰かをきちんと受け入れられるのかどうかを問い直すきっかけになるでしょう。

 『ホットロード』を連載当時読みながら、心にひっかかっていたけれどもよくわからなかったこと――自分が誰かを必要としていて、誰かに必要とされたいこと――が、今やっと、すっと心に入ってくる。『ホットロード』は、少女の時期を過ぎて大人になった読者に向けて、種をまいていたのかもしれません。

大串尚代(おおぐし・ひさよ)
1971年生まれ。慶應義塾大学文学部准教授。専門はアメリカ文学。ポール・ボウルズ、リディア・マリア・チャイルドらを中心に、ジェンダーやセクシュアリティの問題に取り組む。現在は、19世紀アメリカ女性作家の宗教的な思想系譜を研究中。また、「永遠性」「関係性」をキーワードに、70年代以降の日本の少女マンガ研究も行う。

最終更新:2014/04/01 11:20
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