暴走族でも不良でもなかった人が、『ホットロード』を懐かしんでしまう理由
「暴走族」と「純愛」を扱った少女マンガには『ハイティーン・ブギ』(原作・後藤ゆきお、作画・牧野和子/小学館)もありましたが、主に14歳の少女の視点から語られる『ホットロード』は、もっと身近な「ありえる世界」のように思われました。
同時に、和希の傷ついた心や、大人に対する頑なにまで強がった(つっぱった)態度に、どこか共感できたのです。それは、自分が中学生だった頃の、コドモと大人の狭間にいて、ものすごく大人に対していらいらしたり嫌悪感を抱いたりした時の気持ちへと通じました。仮に、大人が正しいことを言っていても、なのです。あるいは、大人が言っていることが、正論であればあるほど、それに抗ってしまう感覚だったような気がします。
和希は、面談で担任教師が語る言葉を聞きながら、こう思います。
「おまえなんかに わかんない な…にいってんの? こいつなにいってんの? なんだこいつ 聞こえない そんなの聞こえない」
そんな和希を扱いあぐねる大人たちは「あなたのこと… わから…ない…」とか、「疲れた…」と口にします。お互いに相手のことがわからないし、さらに言えば自分がどうしたいかもわからない閉塞感が、心に迫ってくる物語です。
和希も「自分1人じゃ生きれない」こともわかっているけれども、彼女を受け入れてくれるのはNITGHTSだけ。けれども、そこでハルヤマとの関係を通じて、和希は自分から変わる一歩を踏み出します。それは、ハルヤマが事故を起こして生死の境をさまよう状態になった時、和希は初めて母親に「ママ たす…けて…」と言って、自分が今何を必要としているのか、どうしてほしいのかを伝えることができたのです。
私はちょうど、『ホットロード』連載時の80年代に、管理教育で知られる愛知県で中学時代を過ごしました。私が通った公立中学は、5つの小学校から生徒が集まっているマンモス校で、当時は一学年に600人前後の生徒がいて、確か13クラスあったと記憶しています。優等生もいれば、取り立ててどうということもない普通の子もいるし、それからいわゆる「ツッパリ」とか「不良」とか「スケバン」と呼ばれるような生徒もいました。
中学1年生の時に仲良くなったKちゃんは、新学期早々3年生のお姉さんたちとつるんでいるような、大人びた子。気っぷのいい姉御肌だったけれども、しだいに学校に来なくなり、中学2年になってクラスが別れた後は、まったく話さなくなりました。あちらも話しかけてくることもなく、違う世界の人になっていったようでした。
ある時トイレの個室をあけたら、中で数人の女の子たちがタバコを吸っていたところに遭遇したこともありました。びっくりして、そのままパタンと扉を閉めました。学期末になると、いわゆる「不良」とされる男の子の1人F君は、オール1の通知表をみんなに見せて、そのまま教室を出て行ったこともありました。「暴走族に入ると抜けるのがどんなに大変か」といった教育委員会推奨(?)ビデオの上映会もあったりしました。