2パック、エミネムをプロデュースした「世界で最も高収入のミュージシャン」ドクター・ドレー
[成功への道]
初のソロアルバムである『ザ・クロニック』(92)は800万枚近くを売り上げ、グラミー賞を2つ獲得した。この作品はファンクのメロディにギャングスタラップを乗せる「G-ファンク」を確立したとして、高く評価された。このアルバムに収められている「Nuthin’ but a ‘G’ Thang」には、目をつけていた駆け出しのラッパー、スヌープ・ドッグをフィーチャリングさせ、彼をメジャーへ送り出すことに成功している。
ドレーは、この頃からプロデューサーに専念するようになった。N.W.A.でイージーをラッパーにしたのも彼であったが、デス・ロウでもスヌープ、2パックを育てることに成功。94年には飲酒運転でパトカーとカーチェイスをし、刑務所に入れられるというトラブルも起こしたが、服役中にイージーが末期のエイズに侵されていると知り、まともに生きる決心をする。ドレーは出所後すぐにイージーを見舞ったが、彼はすでに昏睡状態であり、95年3月26日他界。「ネガティブなエネルギーを発すれば、それは必ず自分に戻ってくる」。そう思うようになったドレーは、東海岸と抗争を始めたデス・ロウを去る決心をする。幸い、イージーのことがあり、ドレーは円満にデス・ロウを離れることができた。その直後に2パックは暗殺され、その半年後にシュグは保護観察中に恐喝をしたとして収監。デス・ロウは派手に崩壊したが、ドレーは巻き込まれずに済んだ。
96年、ドレーは自身のレーベル「アフターマス」を設立。最初にリリースしたコンピレーション・アルバムは、ギャングスタ・ラップと決別したことがはっきりわかる曲になっている。98年には白人ラッパー、エミネムをプロデュースし、世に送り出した。エミネムは社会現象になるほどの旋風を巻き起こし、ドレーは「オレが『終わった』と言っていた奴らを見返せた」と大満足。99年には、満を持して自身のセカンド・ソロアルバム『2001』をリリース。ヒップホップだけでなくポップチャートでも上位に食い込み、ラップ界の帝王ぶりを見せつけた。『2001』では3年ぶりにスヌープともコラボしており、ジェイ・Zもフィーチャリングしている。
ちなみにサードアルバムのタイトルは『Detox』と決定しており、01年に制作に着手したと伝えられているが、今なお発売されていない。ドレーは、この『Detox』が自身最後のアルバムだと公言しているため、慎重になっているとも伝えられている。
経済誌「フォーブス」は昨年、ドレーの資産が2億7000万ドル(約256億円)だと報じた。11年から1年間で1億1000万ドル(約104億円)を稼ぎ、「世界で最も高収入のミュージシャン」になっている。「やめたいと思う時に足を洗う」と公言しているドレーだが、まだまだ活躍し続けるとみられており、その動きが注目されている。