2パック、エミネムをプロデュースした「世界で最も高収入のミュージシャン」ドクター・ドレー
N.W.A.の音楽は敏腕マネージャーとして知られるジェリー・へラーの興味を引いた。エルトン・ジョンやピンク・フロイドをアメリカに連れてくるなど、新しい音楽の風を吹き込む能力に長けていたジェリーは、N.W.A.のマネジャーに就任。ファーストLP『ストレイト・アウッタ・コンプトン』(88)のリリースに協力し、彼らをスターダムに押し上げた。LPに収録されていた「ファック・ザ・ポリス」はFBIに目をつけられたが、ドレーは「おかげで大金を稼ぐことができた」「今思うと、かなり深刻だと思うけど」と回想。「オレたちの曲は暴力的だって言われるけれど、しょせんは音楽。エンターテインメントなんだぜ」と、当時の騒ぎを振りかえっている。
89年、最初のブレイクで有頂天になっていたドレーを現実に引き戻す出来事が起きる。最愛の弟タイリーがケンカに巻き込まれ、21歳の若さで命を落としたのだ。彼の急な死をドレーは受け止められず、苦悩。間もなくして、アイス・キューブが報酬・契約面の条件に納得せずグループを去ったのだが、ドレーは比較的冷静にこの事態を受け止めた。しかし、間もなくして彼は荒れ始める。
[バッシング・評価]
アイス・キューブはグループを去る前に契約書を提示され、署名するように求められたが、納得できないと拒否した。ドレーはこのことについて「今思うとアイツは頭がいいよな。オレはあの契約書にサインしちまった。だから逃げられなくなっちまったんだ」と語っている。
91年、N.W.A.は『Niggaz4Life』をリリースし、爆発的なヒットとなった。しかし、ドレーはグループに対して金銭的な不満を抱えており、この年、立て続けに法的トラブルを起こす。ニューオーリンズのホテルで男性2人をナイフなどを使い暴行し逮捕されたかと思ったら、今度はレコード・プロデューサー、デーモン・トーマスを殴り、顎の骨を折ったとして逮捕。2件とも有罪判決を受け、自宅軟禁措置を命じられた。裁判所からの命令で、毎晩9時前には自宅に戻るよう足首に監視モニター器具を装着させられたのだが、ドレーは荒れ続けた。
パーティーでテレビリポーターのデニス・バーンズを見かけ、「ビッチ! アイス・キューブにインタビューして、オレたちの悪口を言わせただろう!」と、彼女の髪をわしづかみにし、そのままコンクリートの壁に繰り返し叩きつけるという暴行を犯したのだ。ドレーは「口論して彼女を押したことは認める」と弁解したが、デニスは折れず、治療費+慰謝料として2,270万ドル(約21億5000万円)を求める裁判を起こした。ドレーは彼女に、数十万ドルの和解金を支払うことで決着をつけた。
ドレーはイージーに対して、「新しい契約を結ぶか、N.W.A.から脱退させて欲しい」と訴え続けたが、イージーは首を縦には振らない。マネジャーのジェリーも手ごわく、ドレーは暴力と恐喝で金儲けをしてきたシュグ・ナイトに助けを求めた。シュグは、NFLでプレーしたことがある大男で犯罪歴もある。野球バットとピストルを持ち、イージーに「ドレーの契約を破棄すると一筆書け!」とすごんだ。最終的に、ドレーを解雇することが裁判所で決定。ドレーは、「操り人形師のイージーとやっと離れられた。いい気分だ」とコメントを発表し、喜びをあらわにした。
ドレーはやり手の音楽プロデューサーで、レコードレーベル「インタースコープ ゲフィン A&M」会長ジミー・アイオヴィンの助けを借り、シュグと共に「デス・ロウ・レコード」を設立。誰もが恐れるシュグと組み、レーベルを立ち上げたことで注目され有頂天になっていたが、再び彼に悲劇が襲う。ホテルの外で口論となり、銃で撃たれたのだ。命に別状はなかったが、「激しい痛みだった。二度と味わいたくない感覚だった」とコメントしている。