『ミルキー』が描く、乳首を吸われて感じる“女”の私、乳を出す“母”の私
■今回の官能小説
『ミルキー』(林真理子、講談社文庫)
女の人生の中で、最も美しく輝くのは出産直後だと言われている。確かに妊娠、出産を経験した女性の持つ“神秘性”に誰もが陶酔し、またその女性自身も、ただの“女”から“母”へとバージョンアップしたことに酔っているかもしれない。
が、まるまるとしたお腹を抱えて歩いている女性やベビーカーを引いている女性とすれ違うたびに、誰もがどこかで感じているのではないだろうか? 「このオンナ、セックスしたんだよね」と。妊娠・出産をした女性は、ある意味、大声で「私、セックスしました」と言って回っているようなものなのだ。
人を産むという女性限定の経験を経て、「聖母像」に対する視線を向けられる“母”に、“セックス”を思い浮かべてしまう――その禁忌こそが、エロさを感じさせるのだろう。
今回ご紹介する『ミルキー』に登場する陽子も、出産の神秘のおかげで輝く既婚女性。そんな陽子の美しさに魅力を感じてしまったのが、同じ職場の裕一。2人は、数回の肉体関係を持っていたが、その関係性を名付けた時に最もしっくりくるのは、単なる“セフレ”。互いにそれほど恋愛感情はなく、ただセックスを楽しむだけの関係だった。
このご時世、「既婚」という既成事実だけでは女を縛れないように、永遠の愛を誓った主人をあっさりと裏切り、外ではほかの男に抱かれる妻も少なくない。「家庭も守りたいし、女としての自分も守りたい」と、オソトでは1人のオンナとしてセックスに没頭しつつも、家に帰ればちゃんと主人に抱かれる。陽子はそんな欲張りな女の1人であり、一方の裕一も、陽子に対して割り切った関係以上のものを求めることはなかった。
しかし、産休に入った一年半前に比べて、美しく変貌した陽子を目の当たりにした裕一は、思わず昔の陽子の身体に取りつかれてしまう。きゅっとくびれたウエスト、陶器のように美しい肌……。過去に抱いた女を美しく変貌させたのが、自分以外の男だとすると、オスとしてのプライドがくすぶるのだろうか。陽子の存在などとっくに忘れて、ほかの女性と付き合っていたにもかかわらず、裕一は久しぶりに再会した陽子が気になって仕方がない。
陽子を見る目が変わったのは、裕一だけではない。復帰後の飲み会で陽子は、歳上の同僚からは子育てについてあれこれ訊かれ、後輩からは、人を産み出すという神秘を成し遂げたことに対して賞賛を受けるのだ。
産休中は、“母”という存在となった自分自身に陶酔していたものの、これまで“女”として生きていた職場で、ある日突然周囲から“母”として生きよと押し付けられた陽子の心理は、どのようなものなんだろう?
心はいまだに女のままなのに、周囲の反応や身体は、おかまいなしに“母”へのレールを敷く。母と女……その相反する2つの思いを抱える葛藤からか、陽子は裕一に対して聞こえよがしにセックスアピールをし続けてしまうのだ。そんな陽子の葛藤を、最も表しているのが、乳首だった。そこは、最も敏感な部位の1つであり、如実に反応してしまう、決して嘘をつけないところ。乳首を裕一の口に含まれた瞬間、陽子は女として感じつつも、乳首の先端からは乳が溢れ出してしまう。
自分が女であるのか、母であるのか……戸惑う陽子を見ると、ある日突然「母になれ」と言われても、土台無理な話なのではと思ってしまう。自分に向けられる、母としての周囲の期待や反応を一身に受け、うまく立ち回ろうとあがいても、どこかで無理が生じてしまうはずだ。
けれど、女は子を宿した日から、“母”にならざるを得ないのもまた事実。「セックス現役だ」と自分が“女”であることを匂わせながら、神聖な“母”の顔も併せ持つ……見る人によればエロくも映るその狭間で、葛藤しなければならない女の性(さが)を、陽子は身を持って代弁してくれているように思う。