見る者と見られる者――眼差しの欲望と暴力を冷徹なまでに描く『ひばりの朝』
――幼いころに夢中になって読んでいた少女まんが。一時期離れてしまったがゆえに、今さら読むべき作品すら分からないまんが難民たちに、女子まんが研究家・小田真琴が”正しき女子まんが道”を指南します!
<今回紹介する女子まんが>
ヤマシタトモコ
『ひばりの朝』1巻(以下続刊)
祥伝社 680円
ある少女に対して投げかけられる多くの人間の眼差し。ここで言う「眼差し」とは実際の視線以外にも、そこに込められた感情や意志、価値判断をも含むものとお考えください。その暴力性に、ある者は意識的ではありますが、しかし大半は無自覚的であります。主人公・手島日波里は14歳の中学生。人よりも早く身体的に成熟してしまったがために、さまざまな人の、さまざまな眼差しに晒され、そして絡め取られて行きます。『ひばりの朝』はそんな彼女を中心として繰り広げられる、欲望と暴力の群像劇です。
「(男に)なんかされたら言えよー」と日波里に声を掛けるいとこの大学生・名輪完は、つまり日波里が「なんかされそうな女」だと考えているわけです。日波里の母親は、教師との二者面談で「あいつ絶対女のコのお友達いないでしょお?」と、聞かれてもいないのに語り始めます。「だぁってあいつオンナでしょ~? あたしに似ちゃって悪かったなぁって思うんですよお 女に憎まれちゃうからあ」「でもまあね心配はしてないんですよ 男のコに優しくしてもらうやり方はね 知ってるはずですから」。
実際、彼女はごくごく普通の少女であるのでしょう。「凡庸で 人並みに愚かで 人よりは少し臆病で まだ性の何たるかを知らない」年相応の子どもであると、担任の教師・辻だけは理解しています。日波里という空虚な存在は、その身体ゆえにある時は男のファンタジーを押しつけられ、ある時は母親の恐ろしく身勝手な自己投影を押しつけられることになります。そしてその言葉たちが、彼女自身の本心や欲望を置いてけぼりにして、既成事実として周囲に受け入れられていく恐怖。
日波里とは逆に、自分が他人からどう見られているのかが気になって仕方ないのは、完の恋人である矢野富子です。マニッシュな外見であることに悩む富子は、かつて自分の体を写真に撮り、ネットの掲示板にアップしたことがあります。「それなりのリアクションがあって あーあたし女として生きてていいんだって 安心した」と、富子は述懐します。
好むと好まざるとにかかわらず、私たちは数多くの人間の眼差しに晒されています。見る者と見られる者、その欲望と暴力のドラマを毎回異なる登場人物から描いてみせるヤマシタ先生の筆力は、圧倒的と言うほかありません。人物の描き分けも見事ですが、『ミラーボール・フラッシング・マジック』(祥伝社)でも見せた、同じ空間=同じ時間をさまざまな角度から切り取るテクニックの鮮やかさたるや。物語は美しい円環を描き、その円環の内側を濃密な情報で埋め尽くして見せます。
自覚がないまま日波里にレッテルを貼り、と同時に日波里が自分に惚れていると都合よく思い込み、一方では富子の思いなど思いやることのない完。
他者に悪意のみを向け続け、否定し続けた果てに自分が本当はどうしたいのかわからなくなっている完の友人・憲人。
日波里のことが好きなのに、日波里が思っていたような性格でなかったことに戸惑いながらも興奮する同級生の相川勇(彼は「人を知る」ことの喜びと悲しみとを同時に知ることでしょう)。
他人の醜聞が大好きで、日波里に親切なふりをして「父親から性的虐待を受けているかもしれない」という告白を引き出しては興奮している同級生・安倍美知花(彼女はのちに痴漢に遭っている姿を日波里に見られることによって「報復」を受けます。この瞬間、彼女は「見る者」から「見られる者」へと転じます)。
そして日波里はそれらの眼差しを消したいと願うがゆえに、遂に自殺を思うようになります。日波里は言います。「あたしが死んだら全員消したのとおなじことになんないかなって」。
「自分」とはなんと無防備な存在なのでしょう。この世界の残酷なシステムを、ヤマシタ先生は冷徹なまでの観察眼でもって描きます。自己愛や自意識といったバイアスを跳ね除け、『HER』描いた2年前よりも、作家としてずっと成熟したヤマシタ先生。女性はもちろん、眼差しの暴力性に無自覚な人(特に男性)にこそ読んで欲しい大傑作です。
小田真琴(おだ・まこと)
少女マンガ(特に『ガラスの仮面』)をこよなく愛する1977年生まれO型牡羊座。自宅の6畳間にはIKEAで購入した本棚14棹が所狭しと並び、その8割が少女マンガで埋め尽くされている(しかも作家名50音順に並べられている)。もっとも敬愛するマンガ家はくらもちふさこ先生。