悲しみも怒りも自身で解放する、現代女性の“自立”を描く『自縄自縛の私』
■今回の官能小説
『自縄自縛の私』(蛭田亜紗子、新潮社)
コミュニケーションツールで満たされている昨今。時間の隙間を埋めるように、せっせとメールを送り、Twitterでつぶやき、誰かと関係を持っているような気になれたとしても、果たしてその中で、強く心からつながれている人は何人いるだろう?
上澄みだけの関係性でないとつながれない今、言葉にすると面倒に思われてしまう悲しみや怒りといった強い想いは、誰とも共有できない。――それらを解放する手立ては、自分自身で昇華するしかないのだ。
『自縄自縛の私』の主人公は、現代に生きる女性の「鏡」なのかもしれない。彼女は、誰も抱きしめてくれない空虚な想いを自ら縄で抱き締める、そんな術を身につけた。ネットサーフィンをしているうちに出会った、とある緊縛手法のページ。恐るおそるノウハウに従いながら縄を肌に食い込ませてゆくと、えも言われぬ安堵感に満ちてゆく。それは、自分以外のなにものかが強く抱き締めてくれているという安心感。硬質なボールギャグは口づけのように強く、縄が素肌を滑る感触は、まるで誰かの指先が触れているよう。主人公は、アイマスクに閉ざされた闇の中で、確かな「愛」を確信する。
行動記録のように記していた主人公の緊縛日記ブログにメッセージを送って来た、妻子持ちで会社員の中年男性・W氏。同士と知り合った主人公は、互いに情報交換をし合う仲になった。同胞の存在と出逢い、主人公の行動は過激になってゆく。緊縛の上にウェアを纏い、フィットネスクラブでエクササイズをしたり、服の下に縄を仕込んで出勤したり――「バレるかもしれない」という不安は、主人公の心を高揚させたが、ひょんなことから緊縛の趣味を上司である社長に知られてしまい、一度は緊縛をやめようと決意する。
しかし、生きていると、やり場のない怒りや悲しみがふつふつと蓄積されてゆく。そういった不条理な感情を、人は無理矢理他人に押し付けることもある。例えば、上司という立場を使って部下を怒鳴り散らすことで、心の均衡を保っている人もいるのだ。そんな場面に遭遇した時、主人公は再び縄を手にし、自分自身を縛り、抱き締める。
人は他人との関わりを一切断っては生きられない。週末の数日間、縄に抱き締められながら内包する感情すべてを昇華しようとする主人公に、外部からの干渉は容赦ない。唯一の同胞であるW氏も、緊縛趣味が家庭内にバレてしまい、家庭を捨てることを余儀なくされてしまう——。
地方都市の小さな広告会社に勤めている主人公は、上司の気まぐれな人事異動により部下ができるも、給与額はそのままに残業時間だけが増えてゆく……そんな、妥協はできても納得ができない小さなストレスを鬱積し、いつしか強い悲しみや怒りを作り出すのは、現代女性の誰もが抱えている問題なのではないだろうか。この世界は、哀しい理不尽に満ちているのだ。
つらく生きにくい世の中だけれど、生きている限り、私たちは日々を消化していかなければならない。自分1人で生きて行こうとしても、しょせん無理。どこかで誰かと関わり合わないと生きてはいけない。だからこそ私たちは、やり場のない想いを抱えながらも、自分自身でやり過ごす術を身につけなければならないのかもしれない。
悲しみも、怒りも自己解決するしかない現代、「自らを自らで縛る」という主人公やW氏の生き方は、哀しくも滑稽。けれど、誰よりもたくましく生きられるはずだ。
(いしいのりえ)