『最果てアーケード』が描き出す、絶望でも無でもない「死」そして「幸せ」
――幼いころに夢中になって読んでいた少女まんが。一時期離れてしまったがゆえに、今さら読むべき作品すら分からないまんが難民たちに、女子まんが研究家・小田真琴が”正しき女子まんが道”を指南します!
<今回紹介する女子まんが>
小川洋子・有永イネ
『最果てアーケード』全2巻
講談社 各620円
「人間 生きてる人より 死んでる人のほうが多いんですから 死者の持ち物がたくさんあるのも 別におかしくないんじゃありません?」
全編に渡って「死」の気配が色濃い、有永イネ先生の初単行本『最果てアーケード』。それはこの物語が、街を襲った未曾有の大災害「大火事」の後の世界を主に描いたものであるからです。もちろん、それをわたしたちは東日本大震災のメタファーとして読むこともできるでしょう。主人公の少女「大家さん(わたし)」は、大火事によって父を亡くしました。
ところが本作が決して陰鬱になることがないのは、そこはかとなく漂うユーモアのセンスゆえです。レース屋、義眼屋、輪っか屋……「わたし」が管理するこの「アーケード」には少々奇妙な店々が並びます。ヨーロッパのどこかの国ようでありながらどこの国にも似ていない、その掴みどころのない空間感覚は原作者・小川洋子先生の真骨頂でありましょう。「外」のようで「内」のようでもあり、「始まり」のようで「終わり」のようでもある、両義的な空間としての「アーケード」。今はもういない百科事典好きの少女「Rちゃん」はこう言います。
「お父さん なぞなぞだよ この世界で一番多いものってなーんだ」「いい? この世界では『し』で始まる物事が一番多いの」「『し』が世界の多くの部分を背負っている これは世界のヒミツなんだよ」「ねえ 『しあわせ』は何から始まるか お父さん知ってる…?」
百科事典では「む」から「ん」までの13文字もがたった1冊に押し込められているというのに、「し」だけが特権的にまるまる1冊をあてがわれている不条理。そして「幸せ」も「死」もそこには同じく書き記されている偶然。その美しさ。
すぐれたクリエーターほど矛盾や不条理、両義性、曖昧さを肯定し、向き合います。それこそが世界の豊かさであるからです(軽蔑すべきは安易な定義付けと価値判断です)。小川&有永ペアはこの条件に合致します。
すでに文学において定評のある小川先生だけでなく、有永先生もまたすぐれたマンガ家であることは初短篇集『さらば、やさしいゆうづる』(講談社)を併読すれば即座にご諒解いただけることでしょう。『はたらくおばけ』という作品で「幽霊などいない 人間は死んだら無になる」という大学教授に「株式会社はたらくおばけ」の社長はこう言い返します。
「私の母も父の葬式で『人は死ねば無になる』と言いました」「葬儀会場にまだ父がいるのにです」「死んだ人が無になったんじゃない 人に死なれたあなたが無になったんでしょう」「あなたはただ自分の無力感を認めたくないだけだ」「私は幽霊がいるいないに興味はありません」「ただいてほしいかいてほしくないか そういう話がしたい」
有永先生は「死」にまとわりつく絶望のにおいを振り払います。
「…ナオくん マキにはなして?」「話しても仕方ない 話したところで誰か生き返るかよ そんな仕方ない話誰が聞きたいんだよ」「ちがう しかたなくなんかない ナオくん」
表題作では友人を亡くした少年と、7つ年下の少女がこう語り合います。
「死に慣れるなんて ありはしねンだ 何年たっても…きっと自分が死んじまったとしても」「でも それでいい」
『最果てアーケード』の心優しい「レース屋さん」はそう言います。
2巻の後半、主人公に関するとある重要な真実が明らかにされ、周到に張り巡らされた伏線が次々と回収されて行きます。本書に横溢する飽くなき対話と、モノに宿る美しい記憶たち。わたしたちはそこにきっと永遠を垣間見ることでしょう。上半期の私的ベストです。
小田真琴(おだ・まこと)
1977年生まれ。少女マンガ(特に『ガラスの仮面』)をこよなく愛する32歳。自宅の6畳間にはIKEAで購入した本棚14棹が所狭しと並び、その8割が少女マンガで埋め尽くされている(しかも作家名50音順に並べられている)。もっとも敬愛するマンガ家はくらもちふさこ先生。
「む」から「ん」までの少なさたるや
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